山尾三省の死と小田実の死


           一粒の麦

         
安曇野に移る前、ぼくは奈良の御所に住んでいた。
金剛山の麓にある古い村の、空き家になって25年になる築70余年の民家を借りて移り住んだのは2001年。
フリースクールをつくりたいが何もない、何かやれるところをと、とりあえず移住したのだった。
家主の木村さんは篤実な人情家で、趣旨を話すとこの家を自由に使っていいと言ってくださった。
庭の木は暴れ放題、草はぼうぼう茂り、建物も相当傷んでいた。
住める状態にするための必要最小限の工事を施して、移り住んだ夏の夜、
網戸のない家のなかに、蚊が押し寄せ、
蚊取り線香を何本も焚かなければ、夜をすごせなかった。
一週間ほど屋根に上って、風に吹かれながら瓦の一枚一枚を押し上げ、しっくいやモルタルを瓦の隙間に押し込み、雨漏りを防いだ。
家の中から外の空が見える崩れかけた土壁に板を張り、
近所の農家の人が無償で貸してくれた一反の休耕田を耕し、
応援に駆けつけてきてくれた友人や教え子たちの力を得てのゼロからの出発、
星を仰ぐまで耕し、大工をし、創造していく生活は、楽しみであり希望であった。
その夏、
屋久島に住んで自給自足の生活をしていた詩人の山尾三省さんが亡くなられた。


その頃つけていた創作日記を今日見つけ、開けてみたら、
5年前の2002年、友人の進さんに出したぼくの手紙の文章があった。
進さんは、建物の修理や改修の手伝いに、兵庫の山の村から何回も来てくれた人で、
ぼくと一緒に納屋を建てたり、下がっている鴨居を上げて新しい柱を入れたり、農作業をしたり、
汗かきの進さんは、フーフー言いながら、精力的に仕事をしてくれた。
進さんは長年遺跡の発掘調査をやっており、同時に紙すきもしていた。
その手紙の中に、ぼくは山尾三省さんのことを書いていた。


山尾三省さんが昨年亡くなられ、ぼくは三省さんの文章が好きで、いくつか読んできましたが、
先日最期の本を見つけ、読了しました。
初めは、若いころのような精気がないなあと、読んでいましたが、後半から引き込まれました。
進さんが麦踏みをしてくれた裏の畑の小麦が稔り、それを穫り入れ、一部残してドライフラワーを作り、里佳ちゃんに送ってやったりしていると、
新約聖書に出ていたあの一節が頭に浮かびました。
『一粒の麦、地に落ちて死なずば‥‥』
キリスト教徒でなくてもよく知られた一節です。
ちょうど三省さんの文章の中に、マタイ伝の一節が出てきましたので、
『一粒の麦』はどこだったかなと、探してみると、ヨハネ伝で見つけました。
『一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの実を結ぶべし。
己が生命を愛する者は、これを失ひ、‥‥』
死ぬことによって新たな命を結ぶ、生命界はそうして連綿とつながっています。
三省さんの文章を読み進めていくうちに、なにやら予感めいたものがあり、
この先に考古学のことが出てくるのではないかと思っていると、予感が当たったのです。
そこでこの本を進さんに読んでもらおうと思いつきました。
その本の最後にかけて、胃ガンの発見、ツワブキの花のこと、アニミズム、銀河系の断片、と続きます。
一粒の麦の死に至る過程で、三省さんが到達した思想を読みました。
昔、三省さんの本に最初出会ったとき、ツワブキの新芽の美味について書いていたのが、きわだって印象的だったことを覚えています。


『僕たち人間の意識は、そのようにして最も深い層において、森羅万象に向き合っており、開かれてある。
それが人間性であるからには、ある夕方には山鳩の啼き声を聴き、
ある朝にはまっとうに太陽を拝み、
ある夜には、星の光を浴び、
一日一日今日を限りのつもりで、
嘘いつわりなく生きていけば、それでいい。』


三省さんの生き方の、終の輝きのように思えます。
『ビッグストーン』の歌の最後に入る、
『よかとこ いけよ』に、
誠実な心の贈り物を見ます。
僕も、進さんも、『よかとこ 行く』人生です。」


進さんも、その後返信で、『よかとこ いけよ』と、エールを送ってくれたが、
そのときのことを思い出しながら山尾三省のことを改めて調べているうちに、
彼と小田実のつながりを始めて知った。
ベトナム戦争に反対する運動が日本の中で盛んになり、
ベ平連』(『ベトナムに平和を 市民連合』)を小田実たちが立ち上げて、
誰でも入れるデモを組織していたとき、
アメリカ軍の中でも反戦運動が盛り上がり、反戦脱走兵が出るようになってきていた。
その最初の日本での脱走兵が、空母イントレピッドの4人だった。
その人たちを『ベ平連』に紹介したのが三省さんだったという。
三省さんは、1960年代、コミューン運動の「部族」に参加していた。
脱走兵と出会ったのは、1967年であった。
三省さんは、その出会いで交わした会話をこう記している。


<べ平連と連絡をとり、使いの者が来るまでの間、僕らは次のようなことを話していた。
アメリカの若い世代は不幸だ」
「日本だって同じだ。世界中の若い世代は皆んな不幸さ」
「ちがう。アメリカの若者は人を殺しに行かなくちゃならない、人を殺しに行くのがいやなら監獄に行かなきやならない。二つに一つだ。
しかもアメリカはこれから先もずっ と戦争をして行くのだ。ベトナムが終ったとしても、次のベトナムが必ず生れる。希望はないよ。
アメリカの若者はずっとこの地獄とつき合わなきやならないんだ。
おれはドラフト・カードを破る勇気がなかったのでここまで来ただけのことだ。
……だけど、もう今のおれたちには殺すことは終った。それだけでもほっとしたよ」
「ああ、でもこれからが大変だ」
「勿論だ。でもその方がずっとましだよ」>
      (月刊『文芸』河出書房 1968・1 「ある日、新宿で」)


この夏、小田実氏が亡くなられた。
作家であり運動家であった彼の死を惜しむ葬儀が、8月4日にとりおこなわれ、
鶴見俊輔氏が、弔辞を読まれた。


「あなたの最後の小説のタイトルの通り、『終らない旅』は確実に多くの次の世代の人びとに受け継がれ、
国家と軍隊と暴力から離脱し、個人として自律の道を切り開く旅は、決して終らずに続けられてゆくものと、私は確信します。
あなたは千の風どころか、何万という人々の胸の中に居続けることになるのでしょう。


‥‥何よりも、1966年にあなたが提起された『被害者にして加害者、加害者になることによってまたも被害者になる』という主張は、
1945年以降の日本の反戦平和運動の歴史のなかで画期的なものでした。
戦争の加害者としての自覚は、こうして、以後、日本の運動のなかでの中心的な課題の一つとなりえたのでした。


その後の幾多の運動のなかで、たとえばイラク反戦の運動の中で、反戦を強く唱える作家や、評論家や、学者は多くいます。
しかし、あなたのように、運動の最先頭の修羅場に身を置いて、そこで有名、無名の区別なく、ともに一人の個人、一人の市民として平等に行動を続けてゆく、そういう人を私は、残念ながら知りません。


‥‥1968年、佐世保米原子力空母エンタープライズが入港しようとしているとき、あなたは私とともに二人だけで佐世保へ向いました。
民間機をチャーターして、空母の上から撒こうと、英文のチラシを一万枚ほど抱えて。
残念ならが飛行機はチャーターできず、私たちは小さな三トンたらずの木造小船を借りて、
七万五千七百トンのエンタープライズの周りを何度も回りました。
その対比は、あなた自身、まるで戯画のようだったと言っていましたね。
でもあなたはエンドレステープのように、イントレピッドの四人に続け、ベトナム攻撃から手を引けと、英語のアピールをし続けました。
甲板には、耳を傾ける兵士が次第に増えてきましたね。


‥‥今年の秋、10〜11月は、あなたが『終らない旅』のメインテーマにすえられた脱走兵援助の一番初め、
あの米空母『イントレピッド』からの四人の米兵の脱走から満40年を迎えます。
ということは、羽田闘争の40周年でもあり、エスペランチスト由比忠之進さんの焼身自殺抗議からの40周年でもあります。
私たちは、11月17日、そのための集会を準備しています。
決して後ろ向きの回顧ではなく、自衛隊の戦地派遣が続き、集団自衛権の容認の方向が強まっているなかで、
ますます重要になってきている、国家と軍隊からの離脱、市民的不服従の道を語るという、極めて現代的な意義をもったものにする予定です。
あなたとともに、脱走兵援助に力を割いた多くの人びとがそれに加わるはずです。
脱走兵への援助にも加わられた鶴見和子さんの歌に


   脱走兵援助の歴史アジアにて末来へ向けてうけつがむとす


という一首があります。
小田さんの志を継ぐ催しになるものと信じています。


‥‥私たちの手でスウェーデンに送り出されたかつての脱走兵の一人、マーク・シャピロさんからは、


『巨人のように偉大な人間、小田さんへの尊敬と哀悼の念のささやかなしるしとして、葬儀に花をお送りした。
小田さんはこの世界のために実に大きな仕事をなされた。
小田さんとベ平連の皆さんにどれほどの恩義を感じているか、言葉に尽くせない』


という趣旨の便りが来ていることもお知らせします。」


鶴見俊輔氏も、『ベ平連』の中心人物だった。