『地球宿』オープン


       人がいて、人が集まる


9月15日、望三郎君夫妻が『地球宿』をオープンした。
場所は安曇野市三郷、山に近いところ。
出会いと体験の旅宿、
農業や田舎暮らしが体験できる、ホームステイスタイルの民宿。
訪れる人を仲間として迎え入れるホスピタリティの宿。


門を入れば、背戸に広がるりんご園まで見通せ、
その中庭の両側に母屋と納屋が建っている。
筑80年の素朴な古民家。
2階は蚕を飼っていた部屋、1階が田の字の部屋になっている。
なつかしい昔の日本の風景だ。


オープニングセレモニー第1部、
望三郎君につながる人たちが、中庭と家のなかで店を出した。


「アイジ牧場」のラムの焼肉、こんがりいい匂いをさせて肉が焼きあがる。
望三郎君の兄さん、愛二郎さんは、北海道帯広で羊牧場を営む。だから「アイジ牧場」。
店の前にこんな説明が書いてある。
愛二郎さんには五人の息子がいて、祥太郎に、美二郎、善三郎、達四郎、洋五豊、
その名の漢字、「祥、美、善、達、洋」のなか全部に、「羊」がいる。


後ろに、子どもを産んでお乳が大きく垂れ下がった、大きな白いお母さんヤギがいた。
これは望三郎君の近所の人が連れてきて、ここで乳絞りをする。


餃子の店は「鐙」、創作餃子を焼いている。
どうして「鐙(あぶみ)」なのかと問うてみたら、
健康そうな奥さん、
「登山の岩登りの『鐙』です。夫も私も岩登りをしていました。」
餃子店は、3年前に広域農道脇で開店した。


電動糸鋸を置いて、子どもたちを集めて何かを作らせているのは、木工屋の荷見さん。
『地球宿』の改修をやってくれた棟梁とか。
がっちりした体格、やっぱり30代かね。
「こんなのも作れるんですよ。」
真ん中を三日月形に彫りぬいて、弦を張った小さなハープ。
「西洋で、赤ちゃんを寝かせるときに、弾くんですよ。」
耳をつけて弦をはじいてごらん、と言うから、ハープを耳に当てて弾いてみたら、
大きくいい音色がした。
母屋でパンの店を開いているのは、この人の奥さん、
名づけて「梓パンと木のおもしろ工房」、
店は梓川梓に去年オープンし、でっかい石窯で野生酵母を使って焼いている。


生ビールを何杯もお代わりして、いい気分になった若者と話をした。
「今年、東京から安曇野に来たんですよ。
何をするか、まだ決まってなくて、半農・半エックスです。
農業のアルバイトしています。」
彼はパソコンで手作りした名刺をくれた、その裏に、
「只今日本一周徒歩旅行中  どつきどつかれヤポネシア、ひとりまたたび、
長い旅の途上にあなたにお会いできたことを心から感謝します」
と書いてある。
名古屋と岐阜で会社勤めをしていたが退職して、新たな世界を描こうと、
望三郎君のワークキャンプに参加したのが縁で、ここに来たと言う。


大阪出身の若者もいた。
今は松本に住んで、イラストを去年からはじめた。
やはりアルバイトで農業をして、そのかたわら制作活動。
今日はその作品を持ってきて、母屋のなかで展示している。
彼も夢追い人生だ。
夢を追う人が集まってくる『地球宿』。


「どつきどつかれヤポネシア」の若者が言うには、
「あの木工の荷見さんは、世界五大陸をバイクで旅をした人ですよ。」


その日の第2部は、『おぐらやま農場』の暁生君ライブ。安曇野のボブディランとか。
穂高助産院『ウテキアニ』を営む助産婦さんのハワイ本場のフラダンスもあった。
「ウテキアニ」というのは、アイヌ語で、「共に生きよう」という意味だそうだ。
信州のカントリーソングを歌う二人のおじさんほか、多彩な人たち、
この日、子どもも含めて、総勢40人はいただろうか。


望三郎君が、『地球宿』を構想したのは、彼らが東京に住んでいたとき、
第一子「ふうちゃん」が生まれたころだったか。
2002年、サッカーの「ワールドカップ日韓共催」が開催されて、
メキシコの若者を借家の一間にステイさせたことが最初だった。
それから5年たった。
3年前、家族3人で安曇野に引越しをしてきて、借家に住み、
普通のこじんまりした民家に、『地球宿』の札をつるした。
望三郎君は会社で働きながら、宿構想を描き続ける。
人を泊めるとなると、子育てをしている妻・悦子さんの負担が大きい。
望三郎君の夢追いに悦子さんがほいほいと乗ったわけではなかった。
意見の不一致もあって話し合う日が続いた。
葛藤しながら望三郎君の夢追いは着実に進んだ。
田んぼを借りて、米作りもはじめた。
夏休みなどの休暇に、ワークキャンプも企画して実施した。
『自分がやりたいことって何だろう?
誰もが抱えているそんな思い。
みんなで語り合ってみませんか?
豊な自然に囲まれた信州安曇野の農村を舞台に、農林業の体験と、
夢を持って暮らす安曇野人とのインターンシップを通じて、
集まった仲間たちと共に考える一味違う2泊3日のワークキャンプです。』
その呼びかけに、地元や都会の若者たちが集まってきた。
キャンプの宿舎は近くの空き家を借りた。
「我が家を舞台に地球宿を」、その思いを実現したい。
一軒の大きな空家を購入しようかという話になったこともある。
だが、それでは借金を抱えることになるし、
空家の補修にかなりの費用が要る。
どたんばでこの計画はキャンセルになった。


その後に朗報が舞い込んだのだった。
おばあちゃんが亡くなって、空き家になった家、それを貸しましょう。
彼の少年のような人柄、開放的な生き方で、地元の人たちと親しく付き合い、
たくさんの人たちと交流を広げた。
借りた古家の修理・改修には、いろんな人が集まってきた。
そして彼を支えた。
ぼくは、ヒノキの木を彫って『地球宿』の表札を作り、プレゼントした。