学徒の想い


        天国と地獄


『きけ、わだつみのこえ』のなかから、いくつかの遺書を選んで、
中学校の授業で取り上げ、何度か朗読したことがある。
青年教師の時代だった。
そのなかに、たぶん大学山岳部であったであろう学徒の手記があった。
2006・2・26のぼくのブログに、その一部を書いたが、
山に憧れ、学問に生きた学生・中村徳郎の、天国と地獄の生。
東大理学部学生だった彼は、昭和17年入営、19年6月5日、フィリピン方面に向かい戦死、25歳だった。


穂高の岩場ですんでに死ぬべかりし命、
しかもそれは結局、四年ともたなかった。
色々とあの晩のことが思い出される。
‥‥『文化地理学』を読了する。
学問の広さと、困難さ、それに対する限りなき希望を感ずる。
メンデルの言葉を思って力づけとしたい。
『見ていてごらん。今に私の時代が来る』」


「私は今日も生きていた。単に生きていただけにすぎなかったのではなかろうか。
生物的に生きていることの淋しさ。
限りない無意味さ。味気なさ加減。
‥‥伊太利の降伏が報ぜられた。
最近、内務班で斎藤茂吉の『赤光』と、尾崎喜八の詩集が眼に映った。
喜八氏の詩を読んでいる人が、此処にも居るということ、
そのことが私の心を喜ばさずにはおれなかった。」


学生時代の回想。


「‥‥ストーヴが紅く燃えていた。くすんだ窓ガラスをとおして、静かなランプの影が、
これもまた静かな、雪の舞うのを映していた。
食膳に上ったパインアップルと紅茶が、
私達の舌をこよなく楽しませた。
快い疲れ! かくして四年前の今宵が暮れていったのを
―限りない懐かしさをもって― 黄金の夢のように憶い出す、
三本槍の登攀の終わったあの日のことを」


昭和十九年二月二十九日、中村の日記。
「美しい雪晴れで、風が強く吹いた。車廠の屋根から本物のような雪煙が上がった。
三月の西穂の痩せ尾根を思い出させた。
嬉しいような、しかしただ何とはなしに悲しかった。
足が冷たかった。どうして雪と氷と、雲と風と、それらがこんなにまで私の心を動かすのだろう。」


三月一日の日記。
「三月が来た。またしても雪の山を恋う。
今日はペーターカメツィントを一気に読み終わった、異常な感激を持って。ジャン・クリストフに似た印象。」


六月五日、「父上、母上」への遺書。

「長い間あらゆる苦難とたたかって私をこれまでに育んでくださった御恩はいつまでも忘れません。
しかも私は何も御恩返しをしませんでした。
数々の不孝を御赦しください。思えば思うほど慙愧にたえません。
南極の氷の中か、ヒマラヤの氷河の底か、氷壁の上か、
でなければトルキスタンの砂漠の中に埋もれて私の生涯を閉じたかったと思います。
残念ですが運命の神は私に幸いしませんでした。
すべては悲劇でした。
しかし芥川も言っているように、親子となったときに既に人生の悲劇が始まったのだということは、いみじくも本当だと思いました。」


すぐれた旅のエッセイを書いた岡田喜秋は、戦後、この中村の手記を何度も読んだという。
中村が戦死したそのころ、岡田喜秋は、学徒動員で徴用され、
赤城山の麓の軍用機の部品を造る工場で働いていた。
工場で働いていた学徒たちに、3日にひとりずつの割で入隊通知が来て、
戦場へ出て行った。
いつ、自分にも入隊通知が来るか、せっぱつまった心の状態で見る赤城山は、
岡田の心に何の感慨ももたらさなかった。
中学時代に友人たちと登った赤城山は、なんとすばらしかったかと、思う。
「かつて、あれほど若さを謳歌したあの山の頂。その赤城山と今こうして間近に仰ぐ赤城山が、
同じ山とは思えない。」
そして、岡田は開眼する。
「人間が自然というものに、あるふれ合いを感じるのは、どういう時であったか。
‥‥人間が自然のなかに身を投じてみたい、という気持ちはどういう時に起こったか。
山を眺めて美しいと思う気持ちすらない時があるとすれば、それはどういう時か。
‥‥私は自然というものについて、はじめてわかったような気がした。
自然を美しい――と万葉時代の人が感じたとすれば、それは平和な時期であった。


   春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山


この歌が生まれた万葉時代、考えてみると、その当時は、壬申の乱が終わって、
実に平和だったのだ。
平和が生んだ歌だ。」(『思索の旅路』岡田喜秋 大和書房)


それから岡田にも入隊通知が来る。昭和20年の夏だった。