歴史を知ることとは



 太田慶一は、昭和13年2月に召集され陸軍に入隊した。25歳だった。東大を出て、出版関係の仕事に一時たずさわってからの召集だった。その年の7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、従軍した太田は、10月2日、漢口攻撃の部隊にいた。今は武漢市漢口、激しい戦闘の中で、太田は中国軍の手榴弾を受け右手をもぎ取られた。そして出血多量で死亡した。太田慶一は、入隊した日から9月19日まで、小型ノート2冊に手記を書いていた。
 手記は、まぎれもない中国侵略戦争の実態の一部を伝える。歴史を知ることとはどういうことか、歴史を学ということはどうすることなのか、それは具体的にこのような記録から、人の生き様、死に様を知ることである。そして社会や国の成り立ちをつかむことである。
 戦死数日前までの日記のほんの一部をここに記す。

5月15日
 斉藤三郎戦死。口をぽっかりあけている。林豊、ももに貫通銃創をうけて車にのって帰る。みんなでかつぎ下ろす。ずぼんは破れ、赤黒い血がべっとりにじみでている。顔はほこりにまみれてしかも真っ青。長谷部はあごから口にかけてかすり傷を負うて包帯している。松井は三発の弾丸をうけて寝ている。深沢少尉も負傷。付近に三千名からの匪賊が集結して固安、永清を奪還する計画があるらしいとのことだ。夜おそくまで戦死者、戦傷者の始末に人が出入りする。暗澹たる日であった。
5月16日
 営庭の一隅に穴を掘り、薪を山のように積む。二人の戦死者の棺をのせ、薪に石油をかける。‥‥薪に火をつける。炎炎と燃え上がる。
6月10日
 ‥‥見渡すかぎりの麦畑をトラックで乗り越えて、匪賊を求めるうち、ある部落で多々的敵と遭い、一戦を交えて帰る。‥‥
6月19日
 ‥‥激しい夕立にあう。天地暗冥、いなびかり。固安について、民家にはいって雨やみをまつ。往来を滝のように流れる水。‥‥
 ‥‥祖母の死、どんな様子であったか詳しく知りたい。私と一月以上離れたことのなかった祖母。私はただ早く祖母の墓参りをしたい。りっぱに丈夫で帰って墓の前で思うさま泣きたい。‥‥
8月31日
 メモリー
 私たちのように戦時に召集されて教育を受けたものは、教練はいたってまずく、内務はでたらめで平時にあっては満足な兵隊にはなれそうにもないが、戦闘に対する度胸はいつのまにかかなりついているらしい。誰一人として明日の知れない命について深刻な考えをいだいているようなものはなかった。‥‥
9月4日
 ‥‥もう夏も終わりに近づいた。湖から涼しい風が吹きわたるようになり夜になればこおろぎの声が繁い。ときどき砲声が山にこだまする。五里も前へ行けば第一線だ。しかし、露営地は比較的平穏だ。内地のように清冽な谷川が音を立てて流れているし、前の畑には里芋がたくさんある。私どもはフンドシ一つで里芋を掘って谷川で洗ったり、豚を殺して食ったりしている。敵よりも始末に困るのは蚊だ。なかにはマラリア蚊がいて、私どもは夜眠るにも頭と手に蚊帳をかぶることを忘れない。‥‥
9月11日
 ‥‥昼ごろ、突然出動の命令が下り、炊さん、天幕包みなどひどく忙しくなる。夜九時まで青空をみてねる。十時より九江にむかって行軍。夜を徹して九江にいたる。行軍に落ちるものあり。靴から出る火花。‥‥
9月12日
 朝七時ごろ九江につく。
 ‥‥夜八時ふたたびここを出発。八里ほど行軍。
9月13日
 明け方瑞昌の手前三里半のところで露営する。この行軍でばたばた落ちた。
9月14日
 山の上に上って、○○部隊と陣地交代
 途中に屍(しかばね)が累々とある。ひどい悪臭。
9月15日
 右前の赤はげ山から敵の弾がたくさんくる。いよいよ今夜から攻撃開始なので、携帯の飯その他を配給するので大騒ぎだ。
9月16日
 山で一夜明かす。朝七時ごろよりまた大嶺山を攻撃。激戦なり。戦死、戦傷多し。追撃戦にうつり、いくつかの山を越えて、休む。
9月17日
 ‥‥朝からはげしい追撃。何里かの間を攻撃前進、へとへとにつかれる。あかはげ山で敵に会う。午後激戦を展開、ついに敵を追い込んでしまう。
 夜一日ぶりでめしをくってうまし。それまでは生芋ばかり食う。
9月23日
 山を迂回して何里も何里も行軍、少し陽の目を見る。芋をかじって腹をふくらかす。松の木の丘。連隊がいっしょになって帰る。途中少し射撃される。山の中の部落。芋ととうもろこし。夜真っ暗のなかを一気に駆け降りる、ひどい道。飯野へばる。田んぼ。飯を炊いて食う。うまい。家に寝る。
9月25日
 夜があけて頂上にのぼる。ふたたび攻撃前進。山の稜線を歩く。岩石突こつであごを出す。大きな谷を渡る。いくどもここを往復してまったく疲れきる。夜、谷間の奇怪な一軒家で飯を炊く。ふたたび山に上がって寝る。風の音が松にあたって高い。寒い。
9月27日
 六時ごろ起きてわれわれの小隊だけ急に山を下りついに本道にでて小行李の一隊と会う。美しい川の水。久しぶりにがぶがぶ飲む。駄馬の一行をつれてふたたび山に帰り大隊本部と会う。午後四時ごろより、西方の高地の敵を攻撃前進、トーチカありて困難、家に入って一夜を明かす。
9月28日
 敵は山を一つ逃げた。山を相対してしばらく応戦。山を越え、谷を渡り、一日中攻撃前進の続行。すっかりへばる。飯炊きその他の用事のためついにほとんど一睡もしない。くもり。夜小雨少し。
9月29日
 小雨。

 この29日で手記は終わる。そして彼は戦死した。
 この戦争は何を目的にしているのか、中国の奥深くまで進軍して、何をめざしているのか、まったく分からない。山の村には住民は逃げていなかったのだろう。いったい日本軍の敵とは何なのか、誰なのか。突然現れた日本軍を現地の人たちはどのように感じただろう。
 日本軍の兵士もまた召集されて、このような戦闘に加えられ、そして死んでいったのだった。
 歴史認識というとき、それは、このような戦場を頭に描くことから深まっていく。そこに生き、そこに死んでいった人たちを髣髴させることのない歴史の学習は、学習になりえない。教科書とは別に、資料が必要だ。研究しない教師では歴史教育は成立しない。