時代と山


         登山 戦前と戦後


時代区分というものは、人間の意識に影響を与えるもので、
たとえば、江戸時代のイメージと明治時代のイメージとは、がらりと異なり、
二つの時代は連続しているにもかかわらず、1867年でぷっつり切れて、社会も人間もごろりと変わってしまったかのように思っている。
体制の大変化があるから時代が変わり、
政治、経済、文化など、あらゆる面で大転換があるのは確かだが、
それでもぷっつりそこで切れてしまうわけではない。


明治、大正、昭和という時代区分は、
どこがどのように変わったかというのは、それほど鮮明なイメージになっていない。
天皇は替わったが体制は変わらず、日清戦争日露戦争第一次世界大戦第二次世界大戦と、
戦前の日本が歩んできた道程は、連綿と続いてきた。
軍国主義が強烈な力を持つが、民主主義の芽もまた抑圧されながらも育っていた。


最も鮮明に時代が変わったといえるのは、1945年(昭和20)という戦争終結
ここで本当は時代の名称も変わるべきであったが、
そうならなかったのは、昭和天皇も考えていた、退位という選択肢が消えてしまったからだろう。


それほど強烈な転換期であった終戦であるから、
戦前と戦後は、まったく別のもののように思ってしまうが、
それでも連続性は変わらない。
前時代の思想が、今もうごめいている。
一部政治家の思想のなかにもある。


ところで、話は変わって、登山の話。
『ケルン』という山の月刊誌が戦前に刊行されていた。
東京の朋文堂が発行し、編集は大阪のケルン編集室。
編集兼発行者は新島章男氏。
第一号は昭和8年発行。
その第五号、昭和8年11月号に、登山者のデータが載っている。


長野県松本市観光係で調べた昭和8年の、7月、8月の北アルプス登山者は、
関東方面より
男  9498人  女 3177人  計 12675人
関西方面より
男 11372人  女 5004人  計 16377人
総計 男 20870人 女 8181人   計 39052人


約四万人の登山客である。このデータによれば、関西のほうが多い。


山による登山者数は、
富士山   101,814
御岳      33,944
伊吹山    18,055
上高地     6,259
白馬岳     5,830
木曽駒岳   4,882
八が岳     2,987   
甲斐駒岳   2,532
槍が岳     1,268
乗鞍岳     1,121


データの後に、「どの程度まで信用していいかわからないが、山の大衆性を判断する上に多少の資料となるであらう。」
と付け加えられている。
すでに「登山の大衆化」は、昭和8年には到来していたということである。 
『ケルン』誌の内容も、日本と世界の登山記録からエッセイ、詩、登山技術、山の紹介、山岳会の記録など多彩な内容で、
15年戦争時代のものとは思えない。
第5号の昭和8年10月号には、
剣岳への女子集団登攀」の記録が載っている。


「わが国各地とも、登山の気風は急速の進展をきたし、殊に女子のアルプス登山も、
盛んに企てらるるに到った。
去る大正15年、私の学校に、女子専門学校が加設されたのを好機とし、
女学生のアルプス登りを実施することとし、
その初めにあたり、まず北アルプス方面で次のコースを選び、
これを順番に繰り返すことに決定した。
1、槍ヶ岳上高地方面  2、立山、五色ヶ原、剣岳方面  3、白馬岳および黒部渓谷方面


そして第一回登山は、大正15年に実施。
中房から燕岳・大天井岳槍ヶ岳上高地・徳本峠・松本というコースを踏破している。
山麓交通機関も発達していなかったころだから、相当な強行軍である。
あと昭和に入って、第2、第3のコースにチャレンジしている。
この記録は最後に、
「女子が10名以上の団体をつくって、登攀したことは、これが最初のことと思われる。
過去30年間、常に女子の登山を奨励し、その実行を援助し、
また隆盛を希望している私個人にとっては、
ここに大なる満足を感ずるのである。」
と結んでいる。
記事は、朝輝記太留氏。


日中戦争、太平洋戦争が始まって、庶民の登山もできなくなっていったが、
敗戦後、爆発的な登山ブームが巻き起こるその下地は戦前にできていた。


ちなみに、今年の記事。
「7月に長野県内山岳を訪れた登山者は約8万8000人と、前年の53%に落ち込んでいたことが、県警地域課のまとめで11日、分かった。」
「県内山岳には7−8月に例年40万人前後が訪れる。昨年は約16万5000人が7月に訪れた。
県警によると、今年7月の登山者数は、北アルプスが52%減の3万3200人、
中央アルプスが55%減の4500人、南アルプスが39%減の5500人、
八ケ岳連峰が11%減の1万6500人、
その他の山岳が52%減の2万8300人だった。」