熊出没注意


     「お種神社」と「お種の水」


これがお種神社への道かい。
林道から丸木橋を渡って、それからの道は、とても神社への参道とは思えない。
木橋そのものも、落葉松の木を2本切り倒し、皮もはがずにそのまま川にかけたものだ。
たぶん去年の大水で橋が流されたのだろう。
道はくねくねと曲がりながら、人一人が歩けるだけの細さで森の中を行く。
最近、道普請したようなところもある。
人が入ってくるのも少ないらしく、人の気配がまったくない。 

      
頭上に標識があった。
「熊出没注意」、
森の木に取り付けてある。
熊が出るのか、少しばかり緊張。
耳をそばだてて20メートルほど行くと、また標識がある。
「熊出没」の標識が次々と木の上に現れてくる。
だんだん警戒感が増してきた。
警戒感を喚起させるような注意の繰り返しだから、
こちらの意識も変わってくる。


北アルプスの奥へはこれまで何度も入ってきたが、
「熊出没注意」なんていう看板はもちろんあるはずもなかった。
山には、熊も猿もカモシカもいて当たり前だから、知らせるまでもない。
山のそこらに熊は棲んでいただろうが、登山の途中で出会うことはなかった。
人間の気配を人より早く察知して、熊は近寄らなかったのだが、
近年、里山に出没するようになって人が襲われるようになり、それから、危険を知らせるようになってきたのだろう。


これまで山の熊のことでは何一つ心配しなかった。
それが、熊の事故の騒ぎや、現にこういう標識があちこちに見られるようになると、自分が少し身構えだしているのを感じる。
ポケットのなかに車のキーを入れていた。
それに鈴が付いている。
これを鳴らしていこう。
音は小さいが、動物の耳は人間よりよく聞こえるだろう。
鈴を振り振り、
「ワオー、トー、ガオー」
と口からでまかせの声を発して進んでいった。


「お種神社」と言うのだから、林道からそんなに入るはずはないだろうと思っていたら、
なかなか着かない。
いったいどこにあるのかな、といぶかりながら、鈴を振っていくと、
小さな狭い沢のなかに、背丈ぐらいの小さな古ぼけた鳥居が見えた。
ああ、あれか、
やっと見つけた。
岩の間に野球のホームベースほどの小さな祠がある。
その下から水がちょろちょろ湧き出している。
なーんだあ、これが「お種神社」なのかあ、
神社というほどのものでもないなあ、
と辺りを観察していると、
文字のはげた案内板があった。


昔、飛騨の国の姉妹が、信濃の国にいる父親に会いたくて、北アルプスの山並みを越えてきた。
険しい山を越えてここまで来たところで姉妹の一人、お種が力尽き、倒れてしまった。
妹も別の沢で行き倒れた。
姉妹の死を哀れんだ村の人は、ここに祠をまつて「お種神社」と名づけた。
祠の下から湧く清水は、おいしい水とのことで、遠くからも汲みに来る人がいた。
その水で眼を洗えば眼病も癒えたし、
味噌をつくるとおいしい味噌ができ、発酵のすすんだ味噌がいい味噌に変わった。


そんなことが書いてあった。
今は、水量がわずかだから口を付けて飲めるところを探さねばならない。
水を一口、水底の砂を吸わないように吸った。
手を濡らして、まぶたに付け、
白内障なおれ、なおれ、緑内障なるな、なるな、
とお祈りして、、
熊さん、帰るよー、
とあいさつして山を下りた。


一夏で何人参拝するだろう。
人がここまで入らないのは、熊標識も関係しているかもしれない。
烏川渓谷の一支流、その支流から少し入り込んだところに「お種神社」と「お種の水」はある。