砂漠化が進行するネパールで


         ネパールの子どもと環境


3人の少年が荷を入れた大きなかごを背負って、峠を登ってきた。
3人とも汚れた衣服にはだし、十代前半ぐらいだろうか。
彼らは、ぼくらのテントを見つけると、近づいてきて、一人が黙って片手を差し出した。
見ると、手のひらの真ん中に穴が開き、貫通しているような傷だ。
怪我をしてからもう何日も経過しているようで、傷は黒ずんでいる。
急いでテントから消毒薬を出してきて、塗ってやった。
ぼくらの一行の中に、中年のアメリカの婦人がいた。
彼女は、家に夫と子どもを残して、アフガンへ医療活動に行ってきて、
これからネパールを旅して帰国するという。
彼女は、ぼくに代わって男の子の手に包帯を巻いてやり、
医者に診てもらうように英語で話していたが、言葉は通じたかどうか分からない、
医者に診てもらいたくても金はありそうにない。
日本から持ってきた消毒薬は、一つしかなかった。
彼に提供したくても、それができないのが残念で、すまない、と思いながら、見送るしかなかった。
少年たちは無言のまま、また峠の北へ下っていった。
カトマンズの北、シバプリ山。ヒマラヤの連峰はさらに北の空に白くうねっている。


アジア協会アジア友の会が行っていた、ネパールの植林ボランティアに参加しようと、
ぼくは単身やってきた。
しかし、その年ネパールとインドの関係が悪化し、石油燃料がインドから入らず、活動が停滞していた。
カトマンズの連絡所に問い合わせても、その時点ではどこで活動をしているのか情報を得ることもできなかった。
ぼくは、しかたなく山々をさすらうことにした。
1990年のことだった。


ランタンヒマール、ガネッシュヒマールへ、山を越えてえんえんとつづく山道、
峠には茶店があり、それが主要街道だった。
ネパールの山間部を縫うように続く多くの街道は、旅人や山仕事の人が細々と歩くだけの道であり、
山国・日本も昔、そうであった。
旅とは本来、こうしてうねうねと大地の中を歩いていくものだ。
子どもも、荷物を背負って峠を越えていく。
ピ−ヒュルル、縦笛を響かせて、越えていった十代の兄弟がいた。
父母もかつぎ、子どももかつぎ、家族3人の旅人がいた。
ヒマラヤから帰ってきたのか、単独行の白人の男がザック姿で通り過ぎていった。
峠の茶屋に、一人の幼児が遊んでいる。
お尻の開いたパンツをはき、たったひとり、歌を歌いながら遊んでいる。
男の子の友だちは、餌をついばんでいる放し飼いの鶏だ。
夜になると、昼間は草を求めてあちこちへ散らばっていた牛たちが茶店の周囲に帰ってくる。
放牧しても食べる草は少なく、木の葉も口が届く範囲の下枝は食べられてほとんどなく、
保護されている林は、わずかに尾根上だけにある。
電灯のない茶店の暗がりの中で携帯ラジオの声が聞こえ、幼児の父と母が耳を傾けていた。


アンナプルナ峰に至る尾根に、ダンプスという村があった。
人と牛が通るだけの細い村の道は、敷石でおおわれ、
豊富な石で塀も築かれている美しい村。
マチャプチャレの白い高峰が前方にそびえたっている。
石積みの建物に簡素で頑丈な木の観音開きの窓が開いている農家民宿に泊まった。
10歳ぐらいの男の子がにこにこ笑いながら出てきて、
「こんにちは」と日本語で挨拶をした。
男の子は、ぼくを2階に案内してくれた。
硬い木のベッドは清潔で、涼しい風の入ってくる窓の外に、水牛が草を食んでいる。
少年は、ノートと鉛筆を持ってぼくのところに来て、日本語の勉強をするという。
石のテラスのテーブルで、その子は英語の単語を言い、その日本語をぼくが言う。
彼はノートに書いて何度も発音する。。
おそらく、日本語も英語も、ヒマラヤ登山でここに宿泊した人たちから習ったものなのだろう。
夕方、欧米の登山客がやってきた。
シャワーを浴びたいというと、彼は元気に返事をして、水を入れた1杯のバケツを外の小屋へ運んでいった。
「それがシャワー?」と訊くと、少年は頭から浴びる身振りをした。
夕食に豆を煮た料理を食べた。
食後また、少年と日本語の勉強をする。
ヨーロッパの登山者が隣のテーブルでお茶を飲みながら、
「日本語の勉強かい」と微笑んで言う。
夜、ベッドに横になると、階下で少年の歌う声が聞こえた。
「ぽっぽっぽ、はとぽっぽ‥‥」


緑のネパールは、急速に緑を消失しつつあった。
いたるところで森を切り拓き、耕して天に至る棚田も、
水源の枯渇によって、乾燥して草も生えず、
田畑をうるおす水は、雨季を待たなければ得られないために作物ができない。
保水力を失った山は、大雨が降ると土砂崩れを起こし、表土が押し流されていく。
燃料も薪に頼っているから、ますます木が減り続ける。
いったん豪雨が降ると、下流バングラディッシュにまで影響を及ぼす洪水が起こっていた。
砂漠化と山林の崩壊は深刻だった。
ポカラで、植林活動の現地グループに会うことができたが、植林はできる状態ではなかった。


いくつか小学校を訪れた。
ブタニールカンタの山の学校、頭がつかえそうな低い屋根、
電灯のない薄暗い部屋に、びっしり子どもたちが座っている。
はだしのまま登校してくる子もいた。


ポカラからカトマンズへ、10時間長距離バスに乗る。
都会へ職を求めて出て行く若者たちが、バスの屋根の上にも乗っていた。
よりましな生活を願って、都会へ出て行く人たち。
炎天下、超満員のバスが、あえぎながら山道を行く途中に、湧き水があった。
運転手は窓から空き缶をさしだし、乗客の一人に岩から流れ落ちる清水を満たしてもらい、
口から少し離して、冷水を自分の口に流し込んだ。
「ネパールの水は世界一だ」と、
運転手のおじさんは絶賛して笑った。
空き缶の水は、次から次へと乗客ののどをうるおした。
みんな直接缶に口をつけず、糸を引くように自分の口に流し込んでいる。
貴重な泉が、かろうじて残っていた。