サイトウキネン フェスティバル松本


        ロストロポーヴィチ・メモリアルコンサート


黒い衣装に身を固めた銀髪の小沢征爾さん、その後姿をぼくは息を呑んで見つめていた。
タクトが上がらない。
頭を垂れて、黙祷をしているような、
9秒、10秒、
オーケストラの演奏家たちも動きを止め、
指揮者の次の動きを待っているような、
あるいは彼らもまた共に祈っているような、
すべての動きが止まっている短くも長い静寂。
やがて小沢征爾の頭が上がり、小さくタクトが動いた。
かすかに、かすかに、弦楽器の弓が、
静寂の底をなで、
川のせせらぎのように光の波が湧き起こり、
沈黙のホールの空気を震わせはじめた、
ピアニッシモからフォルテへ、
チャイコフスキー『弦楽のためのセレナーデ ハ長調 第3楽章「悲歌」』の始まりだった。


胸が詰まった。涙が出た。
ロシアの大地から湧き立つ楽の音だ。
ロストロポーヴィチ言うところの、始まる前の予感をはらんだ静寂。


「2007 サイトウキネン フェスティバル松本(8.15〜9.9)」、
そのプログラムの一つ、
8月19日、「ロストロポーヴィチ・メモリアルコンサート 」の招待に応募し、
幸いにも選ばれて、
松本市のザ・ハーモニーホールへ夫婦で行ってきた。


小沢征爾が総監督をつとめるこのフェスティバルは、
1992年から開催されてきた。


サイトウ・キネン・オーケストラは、斎藤秀雄先生から預かった、
とても大事な宝物です。
斎藤先生が、日本に西洋音楽の種をまき、育ててくれたおかげで、
今の私があることは言うまでもありませんし、
オーケストラの皆も私と同じことを、それぞれ感じていることと思います。
斎藤先生がやろうとしたことを、私たちなりのやり方で引き継ぐために
サイトウ・キネン・オーケストラは日本に腰をすえて音楽祭を開くことにしました。」
小沢征爾は、このように第1回フェスティバルであいさつした。
サイトウ・キネン・オーケストラは、1984年世界各地に散らばる同門の志が、
恩師斎藤秀雄没後10年に集い、メモリアルコンサートを開いたことから始まっている。


ロストロポーヴィチは、今年4月にモスクワで逝去した。
彼は、20世紀後半以降を代表する世界的なチェリストであり、指揮者であると同時に、
国際的な人権擁護活動家だった。
サイトウキネン フェスティバル松本には、1995年から4回来て、演奏活動を行っている。
2005年のフェスティバルでは、「マエストロ・オザワ70歳チャリティ・コンサート」の指揮者とチェリストをつとめ、
小沢とは熱い友情で結ばれていた。


「悲歌(エレジー)」のタクトを振り終えた小沢は、楽の音の静まりと共に、
また不動の姿勢になって頭を垂れた。
何秒か時が流れ、団員身動きしない中、音も立てずに団員の間を動いてオーケストラの左脇に立った。
そこで小沢の体は聴衆の方に向いた。
拍手が起こった。


ロストロポーヴィチへの追悼の祈りだった。
この日のコンサートのサブタイトルは、「〜スラヴァよ永遠に〜」
「スラヴァ」はロストロポーヴィチのこと。


小沢征爾さんは、若い音楽家の育成を生涯の仕事としておられる。
このコンサートでも演奏は、
サイトウ・キネン・オーケストラ」と合わせて、
「若い人のための『サイトウ・キネン室内楽勉強会』オーケストラ」
の新人たちが活躍した。
斎藤秀雄の播いた種が育って小沢や多くの演奏家となり、
それら世界に活躍する音楽家たちが、また種を播いている。
新しい種を播いて、後進を育て、
その人たちがまた次の種を播く。
ロストロポーヴィチもまた世界に種を播き、
日本に種を播いた。


ロストロポーヴィチ・メモリアルコンサート」は、
「悲歌」につづいて、若い人たちの弦楽演奏、ロシアの声楽家の演奏、
スライドによる「在りし日のロストロポーヴィチ」映写、
そして最後、ベートーベンの「大フーガ」を、
「若い人のための『サイトウ・キネン室内楽勉強会』オーケストラ」による演奏でしめくくった。


小沢征爾さんは、後半から客席に来て、ぼくらのすぐ近くの席に座り、
若い人たちの演奏を熱いまなざしで見つめ、
最後の演奏が終わると、一人立ちあがって、惜しみない拍手を送りつづけておられた。
小沢さんの姿に感動した聴衆もまた、小沢さんに合わせて拍手を送り続けた。