河合隼雄さんを悼む


      教師の専門性とは


先日、河合隼雄さんが亡くなられた。
まだまだこれから活躍して欲しい人であっただけに惜しまれてならない。
河合隼雄さんは、ユングの心理学研究と心理療法にたずさわってこられ、
長年の豊かな研究実践の結果から、
子どもの施設について、こんな提案をしておられた。


子どもの施設に必要な条件は、
「心から休めること」、
「自由にのびのびとすごせること」、
この2点を満足させることである。
子どもたちは、十分に休み、食べ、好きなように時間をすごす。
そして子どもたちを温かい眼で常に見守っている人がいる。


だが、そういう施設をつくることは実に困難だと河合氏自身が言う。


非行とか、問題を持った少年というと、
誰しも、どのように指導するか、と考えがちだが、
子どもたちにとって必要なのは、指導や助言などではなく、
心からの安らぎである。
それが彼らの心の傷をいやし、
自ら立ち直ろうとする動きを活性化させる。


けれども、このような施設をつくると、
「あの子は、一日中寝てばかりいるかもしれない」、
「あの子は、一日中動き回るかもしれない」、
「あの子は、器物を破損するだろう」、
「あの子は、食物を拒否するだろう」、
という危惧が生じる。
そうすると、世話をする人が、
このような子どもたちに自由を許しながら、心を安定させ、
温かい眼でじっと見ていることのできる人にならなければならず、
そういう人になるには、
よほどの専門的な訓練が必要になる。


ところで、この場合、専門的というのは、
知識をたくさん持っているとか、技術が達者であるとかということを、
必ずしも意味しない。


この専門は、
心に傷をもち、立ち直っていこうと努力する人たちが、時に示すことがある、
「あがき」に対しても、的確に対処し、
共に生きていくことのできる能力をもつことを意味する。
一人一人の子どもに対して、その個性に応じて、きめ細かい付き合いができる人である。


そのような点から、この施設においては、
食事をつくる人も、事務をする人も、すべてが
ここに言う「専門性」を身に付けなければならない。


これが、河合氏の論の主旨である。


これは畢竟、学校と教師についても言えることである。
教師の専門性というと、「教える人としての専門性」ということになるが、
ところが教える内容・知識に詳しくても、
教師と子どもの関係をつくれず、、
「安定した子どもたちの学び」を生み出せない教師が多い。
今の学校で現われてくる子どもたちの様々な心の状態と行動に対して、
子どもたちが育っていくように見守り、受け止め、
必要な手立てをうてる教師の専門性を問われたためしがない。
この子のこの現象は、その子の心のどのような状態から生まれてきているのか、
それをキャッチして、そこからアプローチしていく、
そういう専門性を確立することはなかった。
だから、校則を守らせることにやっきになったり、
ある教師は、口やかましく叱り、
ある教師は、体罰に走り、
あきらめ、無気力になり、放任し、
疲れ果て、
さめた悲しい視線を子どもたちに投げかけるようになってしまっていた。


大学の教員養成課程で、このような専門性を教えることはまずない。
したがって教員採用試験で問われることもないし、
教員採用試験で面接する試験官も、この専門性の埒外の人である。
子どもをまるごと受容する心とか包容力とか、
子どもの現象のなかの「あがき」をキャッチし、
それに共感し、対処する能力、
子どもの心の状態や個性を見極めようとする学究姿勢などは、
講義で完全に教えることはできない。
むしろ、その人が、どのように生まれ育ってきたか、
その生い立ちのなかで身に付けてきたものが、ものをいう。
そしてまた、その専門性を体現している教師から学び、
あるいは、自ら子どもとの関係を築くなかで自分の心の奥行きを広げ、身に付けていくものである。


教師たちが、「指導困難校」というレッテルをささやかれる学校へ赴任したがらず、
学年初めのクラス編成のとき、「問題児」が自分のクラスにいないことを願い、
「いい子」のいるクラスを教えたいと思う、
ところが、その現実が思いに反したとき、
専門性をもたない教師は、たちまち困難に直面する。


子どもの心を理解し、心に寄り添い、
そして的確な実践を行えるように、
ゆとりをもった教師を育成していく、
そう、教師もまた育っていくのだ、
そのことをふまえて、
教師養成のシステムを考え、
学校での研修と教育体制を考えていく必要がある。


河合隼雄さんの逝去を悼む。