仏教者の生き方・私の生き方

    
       稲垣さんの通信から


「餓鬼通信」という名の個人誌を、友人の稲垣有一さんが、
毎月送ってきてくれる。
稲垣さんは、小学校の青年教師の時代から、研究と実践に専心し、
校長職を退いてからも、幼児教育の現場と大学で、教員として活動しておられる。
管理職時代も、
他の管理職諸氏とは異質の、哲学・思想をもち、
学究し実践する人物のように思われた。


もう20数年前になるだろうか。
夕方の帰宅時に、ターミナルの駅で一緒になったことがあった。
同一方向に行く電車を待つ間も、彼は熱を込めて語った。
「江戸時代の『エタ・非人』は、士農工商の身分の下に置かれたというが、
下ではなく、外だったんですよ。」
その時代の社会を構成している人の、外に置かれていた人、
上下関係ではなく、身分階級外の人なんだ、
すると、そこから見えてくるものがある、
と語る彼の姿を、今も印象的に覚えている。
共に被差別の底点から教育を作っていこうとしていた時代のぼくらだった。


「餓鬼通信」の26号で、
彼はこんなことを書いていた。


京都の東本願寺に行くと、
「今、いのちがあなたを生きている」
という言葉が掲げられていた。
西本願寺の門前まで行くと、
「世のなか安穏なれ」
という言葉が掲げられていた。
それらは、歎異抄の、
「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」
という、仏教の人間観を説く言葉であり、
だが、昨今の世界状況は、
物質的な繁栄とは裏腹に何か奈落に落ちていく予感が広がりはじめている。
飢餓と戦乱に明け暮れた鎌倉時代に、
「世のなか安穏なれ」と親鸞が願ったように、
今この時代において、
心底、この願いが湧きおこる。
「世のなか安穏なれ」というのは、外の世界が安穏であれというだけでなく、
自分の内面も安穏であれということだ。
私の内面が安穏であるには、
「今、いのちがあなたを生きている」という確固とした哲学が求められる。


先日送られてきた「餓鬼通信」の28号(7月号)では、
「実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、
ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。」
という釈尊の言葉を引用して書いている。
西本願寺の大谷門主は、
元大統領・首相のOBサミットに参加し、
一部に富が集中し、多くは社会の隅で暮らすという状況のゆえに、
寛容を説く宗教から非寛容主義者が台頭している、という議論の中で、
釈尊の言葉を紹介した。


稲垣さんは、このことでこんな指摘をしている。
「(ならば)どうして、太平洋戦争中に戦争をあおり、戦争に協力した教団の歴史的反省がふまえられなかったのだろうか。
日本の仏教が、朝鮮の植民地支配や十五年戦争の遂行などで果たしてきた歴史にふれないかぎり、
平和に積極的に貢献しようとする願いはホンモノにならないと思う。」


ぼくは、過去の戦争協力を反省して、平和運動に献身的に生きている仏教者・僧侶を知っている。
だが多くの仏教者はどうか。
現代文明に追随し、
権力に迎合し、
世相に流されてはいないか。
今こそ日本の社会や世界で果たすべき役割があると思う。
その生き方は、自分の生き方でもある。
自分をなおざりにすることではない。