玉砕しなかった兵士


       判断の分かれ道


横田正平は、1912年に愛知県に生まれた。
1938年、従軍記者として中国戦線に赴き、1941年、召集されて兵卒になった。
彼は日本軍のなかに身をおき、華中、満州、そしてサイパンと転戦、
最後、グアム島攻防戦での玉砕一歩手前で、
戦友星野と謀って日本軍守備隊を脱走、アメリカ軍に投降した。


横田は、捕虜になり、終戦後生きて日本に帰ってきたが、
後、戦争のことは誰にも話さなかった。
彼の息子は、
「おやじは、死ぬ前に何かを僕に語りたくてしようがなかったらしいんだ。
何だったんだろう?」
と言っていたが、それは戦争体験のことではなかったか。
1985年、横田逝去。
捕虜時代に書きためていたらしい、詳細な戦争体験を、死亡する数ヶ月前に取り出し、
手記にまとめて上梓した。


戦死する覚悟であった彼が、
なぜ脱走してアメリカ軍に投降したのか。
その過程のなかに潜んでいるものが、戦争と軍隊の真実を伝えている。
横田の著は、「玉砕しなかった兵士の手記」(草思社)である。
グアムの山中に日本軍は陣を敷き、アメリカ軍は強力な包囲網をめぐらす。
横田は、山中で対峙する日本軍陣地で考える。


「国家としての動きは、僕をさらって容赦なくひきづっていった。
自分ではどうにもならないもののために、おびえ、ひきまわされた。
わめき、悲しんだが、どうなるものでもなかった。
絶対的な力に流されながら、あがくだけだった。
満州にいたころは、
『この男のためなら死んでもいい、この男となら死んでもいい』、
そういう男を探していた。
それが自分の気持ちを楽にして死ねる唯一の麻酔薬だと思っていた。
マリアナへ来て、その望みは砕かれた。
上官は、よりによったような、けちな男たちだった。
自分をなだめうるような麻酔薬を手に入れることはできない。
戦争とは、何だ。
苦しみ、奪われること、死を強いられるだけのものだ。
戦争は、政治を握るおえら方の好むところであるにすぎない。
おえら方の、乾坤一擲の大賭博なのだ。
この戦争を始めた連中には、もう何の義理も感じていない。
もうこれ以上の義理立てはたくさんだ。
僕が死をやむをえないことだと考えていたのは、家族のためだった。
家族も僕をしばりつけている国にしばられている。
あの人たちが、国で抵抗を少なくしていくためには、掟に順応しなければならない。
掟は、僕に死を要求していた。
だから僕は死ななければならなかった、好きな人のために。


だが、おれがここで死んだら、その後でどんなことが起こるだろう。
家族が暮らしていく社会はどんなものだろうか。
マリアナ基地の米軍が暴れまわるだろう。
サイパンで、僕は日本軍の欠点をあまりに見すぎた。
グアムへ来て、米軍の力、底知れぬ物量と科学の力を知った。
日本軍は、軍隊としての権威すら失っていた。
日本は降伏するだろうか。
日本の降伏は、内地がさんざんに壊され、米軍が東京に迫ってからでなければ起こりえないだろう。
敗戦の日本、それはどんなものだろう。
いまの日本を動かしている連中が消えてなくなることだけはたしかだ。
奴らはいなくなる。
おれの家族を縛りつけている支配層がいなくなる。
彼らの決めた掟は力を失う。
おれの家族はそんなものに束縛されないですむ。
そうなれば、いまおれがここでその掟のために死んだら、
なんというばかなことになるだろう。
いったい何のために死んだことになるだろう。
もし、なんとかして生き残り、数年後家族の前に現れたとしたら、
家族にとってはもちろん、おれにとっても、どんなにすばらしいことだろう。
日本も、生まれ変わったようによくなるだろう。
貧しくとも圧制のない国になるだろう。
世界も変わるだろう。
戦争の後の世界を、生きて見たいものだ。」


総攻撃の近づいた日、おおむねそんなことを横田は戦友の星野上等兵に話す。
星野は、横田の話をだまって聴いていた。
彼は、おえら方がいなくなることには、自信があるようにうなずいた。
もし日本が敗北しないようなことがあったら、
おえら方に知られず、家族にも会わずに、迷惑をかけずに身を処すればいい、
世界のどこかで、無国籍の風来坊で生きればいい、麦藁帽をかぶって、鍬を持って。
そう考えると、死の底から解放されたい欲求が、体が痛くなるほどたぎってきた。
『捕虜ということを考えたことがあるかね』、
横田は、星野にたずねた。
『あるね』、
この会話が、二人をして頑固な鉄壁を飛び越えさせた。
二人は、次に捕虜という状態について語り合う。
捕虜としての屈辱も、意味のない死よりはよい。
日本軍では、わけのわからないことで受ける屈辱が多かった。
捕虜として受ける屈辱は、自分が承知のものだ。
屈辱を受けても自分に恥じることはない。
そう思いながらも、横田は、
いよいよとなって、こうした理屈を組み立て、それに拠らんとしていることが、自分勝手なことのように思う。


こうして葛藤に葛藤をかさねて、横田と星野は、
捕虜になったら殺されるかもしれないという危惧も若干あったが、
たぶん大丈夫だろうという楽観をもって、
殺されてももともとという覚悟で投降への道を走り出すのだった。


二人は強く信頼できる間柄であったから、戦場でこんな会話をかわすことができた。
多くの日本軍兵士が、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に縛られ、
「上官の命令は天皇の命令」として、圧制の上下関係で拘束され、玉砕していったなかで、
どうしてこのような思考ができたのだろうか。
とらわれないで事実を見、
本質を見極めようと考える力が、二人の兵士にはあったからだろう。
その『知』によって、行動が生まれた。
『知』はどうして養われるか、そのことが重要なことであると思う。
『無智』は、今の時代も大きなテーマだ。