街道と宿屋


 明治20年に日本に来たイギリスの宣教師ウォルター・ウェストンは、日本に大変な興味を抱き、好奇心の塊になって日本の山野、街を探検し、日本を研究した。彼は三回日本に来て、合わせて20年日本に滞在している。日本の近代登山の父と呼ばれ、「日本アルプス」の名付け親でもある。
 「宣教師ウェストンの観た日本」(露蘭堂)に、宿屋のことが書かれた文章がある。ウェストンは日本の歴史も研究していた。彼はこんなことを述べている。
 宿屋は日本の特徴的なもので、国民の必要性から生まれた。最初に出現したのは大化の改新のころである。その百年前に中国から伝わった仏教の影響で、上層から下層まで国民の生活全般に影響を与える大変化が起きた。その影響は政治、社会、生活、文化、あらゆる面に現れた。 
 影響の一つが交通の改善だった。それまでは無数の川や山によって交通が遮断されていたが、本道ができると、15マイル(24km)ごとに小さな宿場町ができ、旅人は宿屋で泊まり、馬に餌をやる便宜がととのえられた。しかしその便宜が利用できたのは政府の役人だけだった。役人はそれによって地方に出かけた。一般の人は野宿するしかなかった。そこへ出現したのが「布施屋」といわれる小屋、もしくは「(安宿の)寝床」ともいうべき最低限の宿所で、それは仏教僧の提案で慈善施設として建てられた。
 美濃と信濃をへだてる北アルプスの峻険な山やまの山道沿いや麓に建てられた寺は、旅人への避難所を提供するためだった。これは中世ヨーロッパのアルプス地方の宿泊所に似ている。

 本の註にはこうある。
 布施屋と呼ばれたものは、古代律令制の時代に、旅行者の一時救護、宿泊のための施設だった。庶民は、労役や兵役、税の支払いなどのために徒歩か農耕馬で移動しなければならず、そのための食糧は自分持ちだった。旅の途中で命を失う人も多くいた。それが社会問題になり、弘法大師伝教大師の仏教寺院による救護施設がおかれた。
 
 なるほど、古代から寺院は民衆を救護する役目を持っていた。現代、仏教寺院はどれほどその役割を自覚しているのだろうか。