信頼関係をつくる人びと




『餓鬼通信』を執筆している稲垣有一さんが、第59号を送ってきてくれた。
毎号毎号深い思索を重ねて書かれた通信は、自分で印刷し、8ページから12ページほどがホッチキスで留められている。
今号に書かれた、「中国東北部への旅(3) 『加害』と『再生』の地をたどる旅」は、「憲法第九条を誇りにする会」の主催したフィールドワークに参加した記録だった。
中国では、日中戦争時の日本の侵略の跡を丁寧に保存し、広く後世に伝えるための記念館がつくられている。
稲垣さんたちは平頂山にも行き、日本軍によって行なわれた虐殺の現場に直面した。
累々と折り重なる遺骨の山は、記念館に今もそのまま保存されている。


ぼくがこの事件を知ったのは、ジャーナリスト本田勝一の記録からだった。
記録は、1971年朝日新聞に連載され、後に単行本になった。
現場に深く入りこみ、真実をつかみ、明晰に判断していく本田勝一ルポルタージュは、ベトナム戦争をはじめ、たくさん読み、強く心を揺さぶられた。


稲垣さんは、記念館の遺骨を目の当たりにしたときのことを、『餓鬼通信』にこう記している。


「‥‥子どもや赤ん坊を抱いている女性、妊婦の遺骨を目の当たりにした。
『平頂山事件』の虐殺の様相、その凄惨さを見た。
私は、それらの遺骨を見た途端に思わず手を合わせていた。
そして祈りの姿勢になっていた。
何を私は祈ったのだろうか。
このような凄惨な目にあった中国の人びとと
私たち日本人との
国境を越えた人と人との信頼関係を築くことができるのであろうか、
祈る以外にないと思ったのだろう。」


1996年、「平頂山事件訴訟」が、父母兄弟を皆殺しにされていた3人の生存者によって起こされた。
事件から64年、3人の原告が提訴してから10年、2006年最高裁は、「国家無答責の原則」を理由に上告を棄却した。
原告たちはすでに81、84、78歳。
稲垣さんは、提訴を担当した日本人弁護士、川上氏の話を紹介している。


「(原告の一人)莫さんは、各地で証言集会を重ねるなかで、多くの日本人が無償で裁判の支援活動をしてくれている姿に触れます。
莫さんは、それまで『日本』といえば一つの『国』のイメージしか思い浮かばなかった。
しかし、日本に来て初めて、『国』とは別に、
自分たちの体験を聞いて涙を流し、自分たちと一緒に怒り、そして自分たちに深い愛情をもって接してくれる日本の『人』がいることを知り、
感動したということを述べていました。
同じことは、来日した他の原告や中国の支援者らも、たびたび口にしたことです。
また、莫さんは、広島原爆記念館を訪ねたとき、
『原爆の被害者も平頂山と同じだ』と感想を述べました。
そこには、同じ人として、痛みや苦しみを共鳴しあえた瞬間だったのかもしれません。
日本を訪ねた中国の人びとは、帰国後その感動をまわりの人たちに伝え、
それにより徐々に中国の人びとの日本人観にも変化が生まれてきています。
最初は私たち弁護団に対しても疑心暗鬼であり、
平頂山事件の記録を調査しようとしても、なかなか協力が得られない状況が続きました。
しかし、徐々に私たちに対する態度が変わってきます。
日本で、市民組織がボランティアで訴訟支援をしている姿を見て、
同じようなことが中国でもできないか、と考えるようになります。
そして、ついに、中国国内にも、訴訟を支援するために、学者、弁護士、教師、学生、労働者など実に多様な人びとが参加した『市民声援団』が結成されます。」


国境を越えた市民レベルでの人と人との信頼関係、
信頼関係こそが大切だと述べている。
そうだと思う。
信頼関係は、どうすれば結べるか。
信頼は、どんな行動態度、生き方から生まれてくるか、
この10年の裁判の軌跡がそれを示している。
そしてまた平頂山を訪れる日本人の涙する誠実な祈りの姿が、
信頼できる日本人を示し伝えるのだと思う。


山西省における日本軍性暴力の実態を明らかにし、大娘たちと共に歩む会」(略称:山西省・明らかにする会)の通信も、
送られてくる。
この会の日本人メンバーたちは、日本軍基地のあった山西省の山奥深く現地調査に入りこみ、
被害女性から聞き取りを行ない、生活を支援しながら、日本での裁判を貫徹している。
国家の壁は硬い。
しかし愛情で結ばれた信頼関係は、ここにも生まれている。
このような無償で参加している日本人の市民レベルの活動が、
本当の友情、友好を育んでいくのだと思う。
互いに悲しみを理解し、痛みを共有し、一緒に未来を生きようとすること、
日本国憲法の精神はそこにあるのだと思う。