夏休み


       教師たちの夏休み


3人は、いま非常勤講師の身分、
彼らは教諭以上に働き、子どもたちと全身でぶつかり、
学校ではなくてはならない教師になっているが、
非常勤の制度では、採用期限は1年で切れ、
いったん失業状態になるから、
次年度採用されることになっても、
日をおいて採用され、
正教員に比べて、給料、退職金、年金など、多くの条件が不利になる。
それでも彼らは、正教諭以上に、教育活動に専心している。


土曜日の夜、時刻は11時を回っていた。
彼らは、今年の夏休みも、正教諭と同じように、
あるいはそれ以上に学校に出て、活動するのだ。


彼らの話を聴いていて、現実は予想もしないほど進行しているのだと感じた。
どうしてこうなってしまったのか。
要するに、教師たちの情熱は影を潜め、創造的エネルギーは消え、
多くの教師たちは疲弊しているという。
疲れ、あきらめ、自由な研究や実践は衰え、ただ型どおりのことしかやらない、
そういう空気が蔓延している。
昔から学校には、子どもと向き合わない、無能な、情熱のない教師はいた。
しかし今は、普通の教師が、やりたいけれども手も足も出なくなり、
何をしていいか、どうしていいか、分からない、
すくんでしまっている。


校長が定年退職していくときに挨拶する、そのなかの常套句は、
大過なくやってこれました‥‥」
創造的なことは何もしなくてよい、事故なく、過失なく、無事に退職できればそれでいい、
多くの校長たちの様子を見てきて感じるのは、無事なる今日への感慨なのだ。
40代、50代の、リーダーシップを発揮すべき教師たちは、
実践の舞台で、あまりに無気力だという。


もうすぐ夏休みが来る。
だが今、教師たちには子どもと同じように長期に休める夏休みはない。


60年代、70年代、
夏休みの初めに発行された『教育新聞』には、
全国津々浦々で開催される民間教育団体の夏季研究会の要綱一覧が載っていた。
合宿で行われる3泊や4泊の研究会は、
高原、海浜、温泉宿などの景勝の地、あるいは便利な都会で、
多くの参加者を集めて行われ、
教科指導、生活指導、障害児教育、学校行事、教育心理など
教育の全領域にわたって、それぞれ専門的な研究を活発に行っていた。
その数は数百になるだろう。
教師たちは研究と実践を持ち寄り、交流し、
あるいは何も用意していなくても、そこに参加することで、
刺激を受け、啓発され、情熱をもらい、励まされ、癒されて、
全国に散っていった。
教育実践の新しい道を切り開こうと、優れた実績をあげていた教師たちがたくさんいた。
彼らは日本の教育の貴重な先達だった。


だがいま、それらの研究会は、参加者が激減し、いくつもいくつも姿を消している。
そして、そういう研究会の存在を知らず、そこに参加することのできない教師たちがいる。


ぼくの60年代から80年代の夏休み、
それは、日ごろ出来ないことをやれる、自由な冒険の輝きに満ちたときだった。
登山部の夏休み合宿で、テントや食料をかつぎ、子どもたちと汗を流しながら、
金剛山系・ 大峰山脈・大台ケ原・大杉谷・台高山脈、比良山系・木曾御岳・和泉山脈などに登った。
クラスの子どもたちとも、近郊の山や川に毎夏出かけた。
非行やつっぱりに走る子らを連れて、キャンプに出かけた。
「つちのこ探検隊」と称して、吉野山系に毎年入っていたこともある。
部活動、学級活動、巡視、家庭訪問、プール指導、文集作り、新聞作り、
ぎらぎら照りつける太陽、
そして自分自身の山登り、家族との自然体験、教師仲間たちとの登山など、
創造的エネルギーをかきたてる刺激的な暑い夏の日々だった。


今年の教師たちの夏休みは、どんな夏休みになるだろう。
実態は閉塞へ閉塞へと、動いているように感じられてならない。
今こそ、教師たちがもっと自由で元気な実践ができるように、
自己を解放し、多くの実践家教師と交流し、学び、
エネルギーを蓄積する、
そういう能動的な夏休みが要る。


夜遅くまで、現状を憂え、
どうしたらいいかと考える3人の非常勤講師たち。
彼らの条件を保障しようとしない教育行政は、何を考え、何を見ているのか。