更科源蔵『北の原野の物語』


      源蔵の兄の死


ぼくの好きな詩人の一人に、北海道で生まれ育ち、北海道の魂を詠った更科源蔵がいます。
源蔵が六歳のとき、兄が亡くなりました。
干草を積んだような源蔵の家は、
あたりに隣というものの見当たらない、
熊牛原野の一軒家でした。


       吹雪の中の一軒家

  遠くから見ると原野の片隅に
  ポツンと干草を積み上げたように見える
  たった一軒の草小屋からは
  夜があけると青い煙がたちのぼり
  家の中は暗かったがいつもたき火が燃えていて
  そこには ひげをのばした父と
  静かに子守唄をうたってくれる母がいた
  夜になるとぽつんと灯がともり
  真っ暗な外には月が満ちたり欠けたり
  雪が降っては消え
  冬枯れの木の枝には大きな星が
  枝がたわむほどどっさりさがり
  だだをこねる子は連れて行くぞと啼く
  鳥もいた
  吹雪になると
  風と一緒に雪が舞い込んで
  ランプの炎を大きくし
  私の影を恐ろしい大入道にしたり
  とんぼ返りをして見せる鼠がでたりした
       『北の原野の物語』
  
  
  
兄の死のことを、源蔵は『北の原野の物語』のなかに書いています。


「兵隊から帰ってきた兄は、ほとんど病気の床についていて、
20キロも離れたところの病院から馬に乗ってくる、くちひげをピンとたてたお医者さんが、
太い注射針で肋膜の水をとるたびに、
苦痛をうったえていた。
兄の病気の原因は、
軍隊の器械体操とかいう、4メートルほども高いところにかけられる、
台の上を、逆立ちして渡らせられ、
その上から落ちて胸を打ち、
それがもとで肋膜炎になったということだった。


父も母も、長い間苦労して育て、
これから一家をもりたててくれるはずの、
あと取り息子が廃人のようにされて帰されてきたので、
日ごろ無口で感情を出さない父も、
兄の聞こえないところで、
激しい口調で言っていた。

『何でそんな高いところを逆立ちして歩かなければならないのだ。
それが戦争のときどんな役に立つというのだ。
ただ、いい若いものをかたわにするためにやらせているようなものではないか。
この次、もし勝が兵隊にとられたって、だはんこいても(だだをこねても)、
絶対兵隊なんかにやらないから。』

と言って、軍隊というものを憎むようになった。
兄は、何とか立ち直りたい、生き抜きたいと、歯ぎしりして、
病気によいというものは、
ニワトリや魚の生き血までも、手当たり次第にとって、
栄養にしようとしたが、
日に日に、腕は乾した山菜のようにつやがなくなり、
やせほそり、しわだち、
もう起き上がることはもちろん、自分の腕を持ち上げることすらできなくなり、
‥‥
『死にたくない、死にたくない』
と泣くように叫ぶのだが、
それがつぶれて空気のもれる芦笛のように力なく、
しぼむように死んでいった。」


原野に生き、
無数の動植物の命と交わり、
アイヌと仲良く暮らしながら、
平和な一生を送ってきた人たちを、
国家権力の不条理が襲いました。
悲しいひとつの姿です。