淀川中学校同窓会


      還暦の同窓会


阪口さん?
しげしげ顔を眺めて、えーっと、えーっと、
記憶の底を探りながら、ぼくは少し申し訳ない思いで困惑している。
やがて目の前で笑っている阪口さんの顔は、次第にあのころの顔に変わってきた。
記憶の奥に眠っていた彼女の、45年前のぼんやりした輪郭が、
少しずつ明瞭になってくる。
「いま、教師をしています。」
「そうですかあ、知らなかったなあ。」


中学生時代のときの顔と、今年還暦を迎える彼らの顔とを、
頭ののなかで思い比べながら、
「おい、おまえ、あのころと変わっていないな。」
「道で出会ったって、おまえだということが分からないよ。」
と、面影を色濃く残している人と、
すっかり変貌してしまった人と、
驚嘆し、あきれはて、変化もまたさまざまだった。


中学卒業して就職した樋口君は、
「就職のとき、先生が会社へ付いてきてくれましたな。」
というが、ぼくはそれを忘れている。
樋口君は、こう言った。
「還暦を迎える年の同窓会ということは、互いに何もないということや。
だから今日ここに来た。」
そうだ、とぼくは同意する。
肩書きも地位も、功も名も、この会では関係ない。
ゼロの位置、対等の関係だけがある。
裸の関係だけがある。
彼はダンボール包装の仕事をしている。
「ぼくには、定年はないですよ。」
「そうだね、これからも現役でがんばれ。」


頭がすっかり禿げてしまった水岡君に向かって、樋口君が、
「おまえワルやったな。」
と言う。樋口君は中学生のときは小さくてかわいく、
おとなしい子だった。
その樋口君がはっきり言う。酒の勢いもあるようだ。
ぼくがとりなして言う。
「水岡は、ガキ大将やったけど、ワルではなかったよ。」
「そうやで、おれは弱いものいじめはやったことはない。」
大峰山脈、大杉谷へ、登山部で登ったな。
水岡が登山部に入ってから、おまえはいいやつやと分かったよ。」
ぼくの言葉に、水岡は、うなずいて、にこにこ笑っている。
今は建築会社の会長をやっている水岡君は、奥さんを病気で先年亡くしたという。


「先生たちは、おれらの高校合格を祈願して、富士山に登ってくれたんやで。
みんな知ってるか。」
と堀君が言った。
確かに学年の教師みんなで、夏休みに富士山に登った。
木下先生、藤谷先生、坂谷先生、岡田先生、青戸先生、田中先生、そしてぼく。
あのとき、一日で頂上へ登ろうとして、8合目まで来たとき、
ぼくも含めて何人かの頭がずきずき痛み出し、
高山病の症状が出てきた。
頂上まで行くのは無理だと判断して、8合目の小屋で一泊。
メザシのようにぎゅうづめの寝方で一晩明かし、元気になって、翌日頂上に立った。
このとき、木下先生が、登頂を祝って乾杯しようと、ウイスキーのボトルを取り出し、
全員で乾杯したのはよかったのだが、
高山でのアルコールはたちまち脳を侵し、
一行ふらふらに酔っぱらってしまった。
ふらつく足で下山の途についたぼくらは、酔いも収まり、
途中から須走りを、もうもうと砂煙をあげて走り下ることになった。
一歩飛べば数メートル落下していく。
こうして砂塵を巻き上げながら、
馬のように急降下していった。
ぼくの記憶のなかの写真はここまで、
さて、あのときの目的は合格祈願、それが記憶のなかにない。
あのころ、なんでも生徒に話していた、
教師と生徒との密接な関係があったから、そういうことも言っていたのだろう。


「おれは登山部員でないのに、先生、おれも仲間に入れてくれて、
大杉谷へ行ったで。25キロの荷物かついだわ。それ忘れられへんわ。」
運送の仕事をしている気のいい、梧郎が言う。
それもぼくは忘れている。
「先生は、ぼくを覚えてはりませんやろ。
先生はぼくの担任ではなかったけど、
工業高校に1番の成績で入って、入学生代表の挨拶をせなあかんようになって、
中学校に来て先生に頼んだら、先生挨拶を教えてくれましたんや。
それで入学式で挨拶したことありましたよ。」
これも記憶にない。
その人その人の、鮮烈な記憶というのは、その人にとってどうだったかにかかわっている。


「私、先生に恋をしていたから、
先生の気を引こうとして、授業中わざと暗い顔したり、
窓の外をみたりしていたんですよ。」
へえ、そうだったの。
寺師さんは、ずっと新聞部で活躍し、一緒に旧村の古老をたずねて、
昔の毛馬村を研究したことがあった。
その取材記事で、新聞はコンクールに入賞した。
ぼくは新聞部の顧問だった。


淀川中学校2期生同窓会、
当時8クラス、400人余。
ぼくのクラスは、52人のすし詰めだった。
7月7日、七夕、大阪のホテルに70人近くが集まった。
還暦を迎える団塊の世代
これからが人生の花だぞ、
ほんとうにやりたいことをやっていこうよ。