研修生出発


       手塩にかける


その日、ぼくは、
「みなさんのお父さんお母さんは、
みなさんを手塩にかけて育ててきました。
たったの一ヵ月でしたが、私たちもまた、
あなたがたを手塩にかけて教え育ててきました。」
と挨拶の冒頭で言った。
「手塩にかける」という言葉は、
ひょいと頭に浮かんだ
確かな実感だった。
日本語を教えるという行為を通じて、
彼ら一人ひとりの個性に接しつつ、心を通わせ、
これから幸福な人生を歩んでほしいと念じる。
そのとき、
ああ、手塩にかけて育てられてきた人たちだなあと、感じたのだ。


「『手塩にかけて育てる』という言葉が日本語にあります。
自分の手で塩を野菜にふりかけ、何日もかけておいしい漬物にしていく、
そのたとえから、愛情をこめて、優しく厳しく育てていく、
親の心を表現した言葉です。」


ぼくら教師たちと研修生徒の間には、雇用関係も利害関係もない。
両者は、純粋に「教えること」と「学ぶこと」の関係だけで成り立っている。
だからその関係性の中に無償の行為と心が湧いてくる。


だが、研修生を受け入れる企業のなかには、
優れた技術を教えるということよりも、
企業再生の労働力と見て、使うところがある。
人材派遣会社から派遣されてくる日本の若者たちを、
使い捨ての労働力として利用する企業のように。
それがここ数年大きな問題になってきているが、
それ以上に、技能研修生の人権を無視して
劣悪な環境で、安上がりの労働力として酷使する企業がある。
女工哀史は現代も生きている、
女工だけではない。


だからぼくは、あえて彼らのこれからを案じて、
3年間彼らを受け入れる企業を意識して挨拶したのだった。


一人ひとりと無欲無心に接すれば、
一人ひとりの人格のなかに存在する宝物を発見する。
研修生のみなさん、
あなたがたは、それを自覚し、大切にし、それらを生かしてほしい。


二年前、ある企業の代表が、企業へ出発していく研修生に、
こんな挨拶をした。
「日本には良い点もあれば悪い点もある。
みなさんは3年間にそれらを体験するだろう。
良い点は大いに学んでほしい。
しかし、悪い点は、あなたがたが帰国するとき、
全部日本の空港に置いて帰ってほしい。」
この言葉は心に残った。
このような挨拶をする人の企業では、たぶん研修生たちは良心的な扱いを受けるだろう、
と思ったのだ。
だからこのことも、ぼくは、
彼らと彼らをこれから受け入れる企業のみなさんにも、伝えようと、
ひとつのエピソードとして語った。


一期一会、
たくさんの人たちが、
自分の中を通り過ぎていく。
再び会うこともない人たちが、ほとんどだ。
名前も忘れていく。
だが、彼らが無事、笑顔で故郷に帰り、
そこから日本での3年間を思い返しながら、新しい人生を築いていってほしいと願う。
そして日中友好の一粒の麦になってほしい。