子どもの遊び研究④


       四、反撥・反抗の意識


6年1組のガキ大将、アーサーが運動場から木造校舎の二階に向かって叫んでいる。
「おまえも、おりてこーい」
仲間に入って一緒に遊べ、と言うのだ。
廊下の窓から、おれは運動場に向かって叫んでいた。
「おれは、行かんぞ。」
おまえの言うことなんか聞くかあ、
むらむら反抗心が湧いてくる。
他の連中は、みんな運動場に出て行ったようだ。
おれは腹を立てていた。
アーサーたちは、最近転校してきた女の子を、何やかやと、いやがらせをしてはいじめていた。
駅長の娘だという。
よくおしゃべりする、はでな子だった。
それが彼らは気に食わない。
ボスが気に食わないのに同調して、取り巻き連中もいじめる。
それにおれは腹が立つ。
おれが、ボスに面と向かって反抗するのは、初めてだった。


記憶のなかの一枚の写真は、窓からどなっているおれの姿だ。


年を経て、あのときの同級生の森君がこんなことを言ったことがある。
「みんなでアーサーを泣かしたことがあったなあ。」
反ボスの連中で、ボスを泣かしたという。
だが、その記憶がおれにはない。
どうしてだろう。
森君は小学3年生のときに、中国から着の身着のまま、家族ぐるみで引き上げてきた。
そのときは、小さな体に国民服を着て、よく洟をたらしていた。
父は印刷職人で、暮らしは貧しく苦しかった。
彼のそまつな家へ、よく遊びに行った。
彼もいじめの対象になることがあったが、やられると必ず抵抗した。
自分より大きな田舎の子を相手に組み打ちになると、彼は腕にかみつくという戦法をとった。
あごを相手の顔や体に付けて、ぐりぐり押しまくる。
痛さに耐えかねた相手は、腕に歯型をのこして退散した。


おれも小学校2年になって、大阪市内から転校してきた。
兄はおれより2年前に、その町で果樹園をつくっていた祖父母の家に来ていた。
兄が転校してきた時は、まだ戦時中で、軍国主義教育の時代だったから、
兄は地域の上級生からひどくいじめられることがあった。
おれもまた、いじめられることがあり、
担任の女の教師は、地元の旧家の出で、おれの訴えを全く聞こうとせず、
訴えるたびに逆に叱られる始末だったから、学校へも教師へも興味は湧かなかった。
戦争は終わったが、兄の学校への拒否・反抗に同調して、二人一緒に学校を休んで、遊び歩くことが何回かあった。
しかし、学年が上がり、自由教育が試行錯誤で行なわれるようになって、
いじめられることはなくなり、
4年生で出会った担任の教師の影響を受けてから、みるみる学校生活はおもしろくなった。
松村貞一先生、師範学校を出たばかりの若い教師は、子どもの心をつかんだ。
怪談、物語、いろんな面白い話をしてくれる、きりっと男らしい先生だった。
冒険心や正義感が、この先生によってかきたてられた。


5年生は女の担任先生だったが、このとき、はじめて反ボスのようなグループができた。
担任の先生は、クラスに自由研究の班を作るように言った。
クラスのボスとその取り巻きは、動物班をつくった。
森君、おれ、両親のいない森本君ら数人は、彼らに同調する気はなかった。
おれたちは気象班をつくろう、こうして活動が始まった。
ガキ大将は、動物を調べてくると言っては、仲間をぞろぞろ連れて、
授業中に教室から出て行き、
学校の外をうろうろして帰ってきた。
無力な担任は、泣いていた。
ボスと、彼に追随する者への批判意識が、おれたちの仲間に次第に芽生えていた。


「みんながするから自分もする」、
「力のあるものに同調し、真似をする」、
このような自分の考えを持たない同調や模倣に反撥し、拒否する意識というものも、
いつのまにか育っていた。


6年になって、仲間とのつながりがより強くなった。
自分の意思で動く、それが次第に育っていた。
ボスと言える存在もいなくなっていた。