卒業式


      卒業式の形と心


学校の卒業式を、
どのようなものにするかという実践は、
これまでずいぶんいろいろ行なわれてきた。
大きく分ければ、
伝統儀式型と、
児童・生徒を主人公にした創造型卒業式。
ぼくもまた、その二つを実践してきた。


明治の初めに学制が発布され、文部省ができ、
全国津々浦々にまでできた学校は、
統一された型と内容をもち、
日本の風土に根を下ろした。
国家主義の時代は儀式を特に重んじた。
卒業式は厳粛に、
式辞、卒業証書授与、祝辞、送辞、答辞、式歌「仰げば尊し」、「蛍の光」‥‥


教師3年目、ぼくは「答辞」の担当になった。
進学する子と就職する子と、二人の代表を選んで、
答辞を述べてもらうことにした。
初めて卒業生を送り出したあの日、
講堂はまだなく、青空卒業式。
幔幕を張りめぐらした運動場で、いがぐり頭の二人は答辞を述べた。
進学していったひとりは、その後大学教授になった。
高度経済成長が始まり、都会の企業へ地方の中学卒業生の労働力が奔流となっていた時代、
就職していったもうひとりのあの子はその後どうなっただろう。
今も心に残っているのは、就職していった彼のかすれた声とにきび面。


1966年、ぼくは転勤した、困難校と言われた学校に。
差別と向き合う、被差別部落や在日韓国・朝鮮人の子どもたち、
都市周辺の農村の子ら、街の子ら、
地方から移住してきた住民の多く住む公営住宅の子ら。
そこでの卒業式、ぼくは又「答辞」担当になった。
男女各一名の代表、その答辞のしめくくりは、ギリシャ劇の唱和・シュプレヒコール
感動でふるえた、この子らの姿のどこに困難があるか。


1970年、その学校から分離独立した新しい学校。
人間解放の旗印を掲げ、教育の自主編成が始まった。
卒業式もまた、子どもたちと教師たちが、ゼロから考えていく実践となった。
卒業式とは何か、
「卒業証書授与式」という言葉に込められてきた思想を探った。
卒業生の歌,全校生で歌う歌が、生徒たちから募集して作られ、歌われた。
代表答辞はなく、クラスごとに卒業生が舞台に上がり、
全員が、自分を発表していった。
涙でもの言えぬ子の横から支えたクラスの仲間。


多くの学校で、さまざまな創造的実践が行なわれた。
折から、夜間中学校運動のなかから、東京で上がった声、
「形式卒業生」
教育から疎外された人たちからの告発。


1980年代、
転勤した学校では、
在日の子どもたちの猛烈な教師への反抗があった。
管理主義教育が力を増した。
懐疑と模索の日々、
自由な教育を創造しようとする学校が、全国で立ち上げられ、
それを見学しに行った。


いくつもの学校を通り抜け、
いくつもの卒業式をつくり、卒業生を送り出し‥‥、
遍歴。


そして今は、
中国の労働青年たちと別れる、閉講式。
ここでもいくつか実践をやってみた。
全員一人一言ずつ、つたなくても自分の出発の言葉を日本語で発表していく形式と、
従来のやり方、代表が一人、感謝と決意を型どおりに発表する。
「一人一言方式」は、研修生の人数が少ない場合に行なえる。
日本語が上達した人も、そうでない人も、
自分の言葉で、自分の声で、自分の思いを、ひとこと発表して出発していく。
閉講式に向けてありのままの自分、自分らしさを日本語にしていく過程は、
一人一人にとって研修所最後の日本語学習であり、
そしてまた、なぜ自分は日本に来たのかと、その意味を考えていく思索の場でもある。
日本の印象、日本語学習とその感想、
中国の故郷と家族を想い、将来への希望、夢を描く、
自分を掘り起こし表す数十秒の言葉。
数十人の色とりどりの言葉は、
一枚のパッチワークのように、織物のようにつながっていく。


今年3月、日本の学校では、卒業式をどんな思いで迎えただろう。
学生・生徒は、どんな出発をしただろう。
教師は、どんな思いで送り出しただろう。
その日、そこにいた人の心に流れた風はどんな風?


伝統を重んじ保持していく、そのことの意義は大きい。
伝統にとらわれないで、新しい発想を導入する、それも大切なこと。
伝統の何を重んじ、何を変革していくか。
保守するもの。
革新するもの。