一人の先生の影響


        佐藤藤三郎と無着成恭


佐藤藤三郎さんは、2000年に「山びこの村 ――だから私は農をやめない」(ダイヤモンド社)を出版している。
藤三郎さんにはお目にかかったことはないが、藤三郎さんの中学時代の無着成恭先生には会ったことがある。
豪放磊落、体もでかかったし、バイタリティも大きかった。
その無着先生の教え子、佐藤藤三郎さんの名前が記憶にインプットしたのは、無着先生編集の文集「山びこ学校」の最後に掲載された、藤三郎さんの発表した卒業式答辞によってだった。
山形県山元村中学校三年生の佐藤藤三郎の答辞、
そこには無着成恭先生への尊敬と感謝の気持ちとともに、自分たちが受けた教育について述べられている。


ほとんどまともに先生がそろうことのなかった貧しい山村の小学校から中学校へ上がった子どもたちは、
中学校で無着成恭先生に出会う。
藤三郎はこう書いている。


「中学一年生になって、私は無着成恭という偉大な人間に遭遇する。
出会ったとき、カルチャーショックのような大ショックを受けたことはたしかである。
無着先生の基本理念や、精神といったものは、新任のあいさつにつきる。」
そうして藤三郎はそのあいさつの内容を、『遠い山びこ』(佐野真一 文芸春秋)の文章を引いて書いている。
「みなさんが利口者になろうとか、物知りになろうとか、頭がよくなるためとか、
試験の点がよくなろうとして学校に来ておるのならば大馬鹿者です。
学校は物知りをつくるため、あるいは立派な人間をつくるためなどと言わなければならぬほどむずかしいところではなくて、
いつどんなことが起こってもそれを正しく理解する目と耳を養い、
そして誰がみても理屈に合った解決ができるよう勉強しあうところなのです。」
藤三郎はあいさつの文脈の記憶があいまいだったのだろう。
それにつづけて藤三郎は、
「こんなことを言うとアメリカ兵に無着成恭来い、と言われて、
バンと鉄砲で撃たれ、殺されると思うが――。」
と、心の奥に強い印象を与えた無着先生の冗談と子どもたちの大笑いをはっきり記憶している。


無着先生は、つねに「自分の脳ミソで考えろ」「自分のことばで話せ」
と盛んに言った。
「それはまさに『日本の自立』『人間の自立』『自己の確立』といったことであって、
それに若い無着先生は青春の情熱をまっかに燃やしていたのである。」(藤三郎)


無着先生は、子どもたちに、自分の生活を見つめ、作文に書き、
どうしてこのような生活になっているのかを考えさせ、
そこから子どもたちの自発的自立的な生き方を引き出そうとした。
「山びこ学校」は、戦後の生活綴り方教育の原点となる。
無着先生に教えられた卒業生は、その後どのように育っていったか、
軌跡の一つが佐藤藤三郎であった。
藤三郎は中学校を卒業して、定時制の農業高校へ進む。
そして農業一筋の人生を歩む。
25歳のときに、「25歳になりました」という本を上梓。
その後、数々の農業関係の本を出版しながら農業評論家として故郷に生き、農業に生きている。


無着成恭は当時21歳、昭和23年の赴任である。
かねがね不思議な感慨をもってこの当時のことを思うのは、
昭和20年までに受けてきた教育の影響を断ち切って、
理想の教育に立ち返ろうと模索実践する教師たちの情熱である。
食料も乏しく、みんな貧しかった時代、理想と情熱はあった。
無着先生もその一人だった。


藤三郎も、その疑問について書いている。
「そのような思想や学究の方法はいったい
いつ、どこで、培われたものなのだろう。」


無着先生が、もう一年か二年早く生まれていたら、まちがいなく学徒兵として戦地に送られていたことだろう。
そのような戦中の教育を受けてきた無着先生のなかに、どうしてこのような考え方が養われていたか。
僕は思うのだが、
一つの体制があり、そこで人は束ねられ、集団が一つの抑圧方向に動いていたとしても、
一人一人のなかでは、人間本来の願いに基づく、
体制とは異なる水脈がうごいていて、
体制の崩壊と共に、堰を切ったように新しい水が溢れ出すのではないか、と。
厳寒のなかで春が準備されているように。
ぼくは、ジョン・ダワ―の「敗北を抱きしめて」(岩波書店)を多くの人に読んで欲しいと思う。
1945年8月15日の敗戦直後の廃墟と欠乏のなかから数年の間、日本人はどのように動き出し、どのように生きたか、
それを知ることは重要なことであると思う。