第三の開国


       開国


3月2日、一陣のさわやかな風となって、出発していった中国の青年たち。
技能研修制度にもとづいてやってきて、
希望と情熱と優しさと勇気を、ぼくたち日本語教師に見せてくれた若者たち。
ほとんどが中国農村の出身、家族への想いと夢を胸に秘めて日本の土を踏んだ。
中国で二ヶ月、日本で一ヶ月の集合教育によって日本語会話の基礎を身に付け、
三年間の企業研修・実習の生活に入る。
一ヶ月、ともに暮らした彼ら。
中国の工場で鍛造を仕事にしていた人、溶接をしていた人、食品加工をしてきた人たち、
さまざまな肉体労働をしてきた、学校教育や進学とは距離のあった人たち。
日本語の勉強は、彼らにとってはまさに青天の霹靂、
今までにない朝から晩までの頭脳生活だった
教師たちは、叫ぶ。
3年後、元気な笑顔で、ふるさとの家族のもとへ帰れよ。


今日本には、80万人からの外国人労働者が働いている。
そのなかには不法就労者もいる。
低賃金で働かせて利益を得ようとし、トラブルを引き起こすウイルス企業が広がっている。
それに対して、制度の規定を遵守し、技術を伝え、
そして彼らの未来と企業の存続も図ろうとする広い視野を持った企業もある。


バブル経済が崩壊し、少子高齢化社会に突入した日本は、
今、三回目の開国を迎えているように思える。
近代日本の最初の開国は、明治維新
黒船に夢破られた日本は欧米の近代文明へ国を開き、
富国強兵政策を推し進めた。勝ちどきの声とともに。
二回目の開国は1945年の敗戦。
おびただしい犠牲の上に、日本は、民主的な平和国家へと国を開いた。
そして経済大国への道を歩んだ。
そして今、三回目の開国。
この開国は、外国人を社会の中へ迎えなければ、立ち行かなくなった日本の、
「内を変革していく」開国となる。


山形県最上郡大蔵村
北部を最上川が流れ、月山山系に位置する村。
かつて一万人いた人口は、半分の五千人になった。
農家の長男があるとき、ふっと周囲を見渡すと、
村に女の人が全くいなくなっていたという。
東北で森の舞踊、村の舞踊の公演活動をつづける大蔵村の森繁哉が語っている。
農家の嫁不足ということは、密かに密かに潜行していた。
長男に嫁がいなかったら家も村も成り立たない。
「農村が沈殿していく息苦しさとともに、
農業が近代化、機械化していくことによって、農村社会のなかに機密性みたいなものが入り込んできて、
その機密性が高まっていくような怖さです。
これは風穴を開けて、風が吹いてこないと、とてもとても息苦しいと、
農村自体だってこのままの継続ではダメだって。
それで村社会というものを、共同性とか共同体という視点から勉強していったんです。
村ってなんだろう、民俗学文化人類学もありました。
そうしてアジアの一つの社会、フィリピンの民族社会のあり方にたどり着いたんです。」


そうして始まったのがフィリピン女性との国際結婚だった。
これについていろいろな意見もある。
だが、実際にそのことを推し進めてきた森繁哉や当事者の村の人たちは、
ことの自然さを実感している。
「私は、国境やさまざまな制度というものの底流で、
水と水とが重なり合うように、人と人とがつながりあうような印象を強く受けて、
そういうものがもう始まっているんだなあって、思ったんです。
大蔵村で国際結婚が始まり、それが達成されてから、一気に全国的に広まって、
外国人労働者も入ってきたわけでしょう。
その間口をバッと開けたと思うんですよ。
全国至るところから国際結婚についての問い合わせが殺到したんです。
地下水脈がものすごく動いていたんですね。
フィリピンも全く同じ。欲望というか、こうしたい、こうしなければ始まらないという
身体の欲求が、流れつづけていた。
それに、日本が本当の意味で自分の国を開いていくことの先がけとして、
彼女たちはやってきたように思うんです。
さまざまな国境や壁が崩壊し、
地下水脈が重なり合うようにして人びとの動きも重なっていく。
地図を変えている。
彼女たちが大蔵村にい続けていくことが、日本の社会にとって非常に大事なこととしてあるのです。
大蔵村は、外部に開く予習をした村であり、
人間の生命というものの未来を占っていくような出来事を体験した村だと思うんですね。」


実際にやってみた人間の言葉である。
森繁哉は、こんな実例をあげている。
しゅうとめたち、ばあちゃんたちは、フィリピンの花嫁を、受け入れ、フォローして、
自分のあり方を開いていったと。
花嫁たちにとって、ばあちゃんは、救いだったと。
人間は変わるのである。