中身と質


        器や形はあっても


昨日書いた、木曽路を案内した中央線の列車の、あの車掌さんは、
それが決められた仕事だからやったのではなく、
自発的なものだった。
車掌という仕事に就き、
案内という任務を持つ、
だが、その中身は、その人自身が作り出すことになる。
この車掌は、そういう中身を作った。


中日新聞だったか、昔、コラム欄にこんな出来事が出ていた。
新聞社への投書を取り上げた記事だった。


東京発の、夜も遅い電車の中に、
仕事で疲れきった人たちが家路に向かっていた。
その日は、満月だった。
突然、車内放送が入った。
「みなさん、今夜は月がたいへんきれいです。
窓からごらんください。」
正確な言葉は忘れたが、そのような内容だった。
その瞬間、車内の空気がなごんだ。
思いがけない放送に、つり革を握っていた人、座席に座っていた人たちが、
窓の外を眺めた。
煌々たる天の月。
どんよりとにごったような疲れた体と心に、
清冽な月光がさしこんだ。


この放送は、一人の若い女性の、車掌に伝えた言葉が動機だった。
車掌さん、月がきれいです。
月の美しさに気づいた女性は、
それをみんなに伝えたい、みんなに見せたい、見てもらいたいと思った。
そして車掌に言った。
女性の気持ちが、車掌に伝わり、車掌が放送したものだった。
車掌は迷っただろうか。
こんなことを放送した人はこれまでいない、
こんな放送をしていいだろうか、
変に思われないだろうか、
これは自分の任務ではない。


はなから「やらない」と判断をする人がほとんどだろうが、
この車掌は、自分も月を見て、なんと美しいと、心を打たれた。
そして、放送しようと判断した。
この車掌さんの人格が、この行為に現れている。



学校教育において、教師という任務につく。
学級担任になる。
授業を持つ。
カリキュラムが決められる。
教科書をもらう。
教えるための形がそろう。


システムが作られ、器ができ、形が整えられても、
そこに何をどのように盛り込むか、それはその人に任されている。
その人次第である。
子どもたちに向かって、どんな言葉を発するか、
子どもたちを、どのように見るか、
どんな気持ちで教えるか、
どんな教材を用意するか、
どんな授業をするか、
すべて教師に任される。


器の中に、何を盛るか。
白いキャンバスに、何を描くか。
その中身は、教師の思想・哲学、知識、体験、感覚、性格、
教師の全人格によって決まっていく。
教師は絵を描き、
それに引き出されるように、
子どもたちは自分の絵を描いていく。