会話を成立させる心境

   
        注意


ぼくの向かい側に女の子が二人、
ソナチネの楽譜をひざに置いて、
鍵盤をたたくように指を動かしている。
音楽学校の生徒かな?
「あの紙芝居ね‥‥」
女の子たちはおしゃべりを始めた。
へえっ、紙芝居、めずらしい。
話は童謡に移った。
どうも音楽学校の生徒ではなさそうだな。
ぼくはひざに置いた本に集中しようとするが、意識はその子らのほうへ行く。
かわいい子だな。
電車のボックス座席。
話の中身からすると、短大の幼児教育科の学生かもしれないな。


女の子の一人が、ガムを出して、ひとつを隣の子に渡した。
隣の子は、ガムの包み紙をはがすと、ガムを口に入れ、
包み紙を持った手を、自分の背中のほうに回した。
どうするのかな。
二人はにこにこ笑いながらおしゃべりしている。
右手は、ごく自然に動いている。
どうやら右手の包み紙を、自分の座席の背もたれとシートの間の、
つなぎ目に押し込もうとしているのだ。


そりゃ、だめだよ。
ぼくの喉から声がでかかった。
が、ちょっとためらうものがあって、
声がひっこんだ。


女の子たちは、ガムをかみながら、愉快そうに会話を続けている。
しばらくして、女の子は、かんでいたガムを口から出して銀紙にくるんだ。
ぼくの眼がその動きをとらえる。
手はまたもや自然に、何事もないように動く。
銀紙の小さな塊はまたも背もたれと座席シートの隙間に押し込まれた。


ぼくの喉の奥から、今度は前より必然的な声が出かかった。
険しい感情は少し怒りを含んでいた。
だが、ぼくの声はまたもやストップした。
ストップしたのは、電車の中に高校生がたくさん乗っていたからではなかった。
どうして注意をためらったか。
それは、女の子に注意する声が、とがめる険しさをはらむだろうと、気になったからだった。
もし、そのまま声を発していたら、
たぶん険しい顔をして、気色ばんで言っていただろう。


しかし、ぼくは注意するチャンスを二度も逃した。
いいのか、という声がする。
葛藤がうごめく。
幼児教育を専攻している学生だよ、この子らは。
こんなことを平気でしていて、どんな教師になるんだ?


女の子の会話が、また耳に飛び込んできた。
映画の話から、雲の話になった。
女の子は、電車の窓から外を見つめている。
電車は海岸を走っていた。
白雲は、水平線からもくもく立ちあがってきている。
二人はひとしきり雲の話に熱中した。
そのとき、ぼくの心の中の険しさが、すっと引いていくのを感じた。
心境が穏やかになっていった。
かわいい学生だな。
ぼくの顔に笑顔が現れた。
そのとき、ぼくの口から、自然な声が出た。


あなたたち、次の駅で降りるの?
はい。
幼児教育を勉強しているの?
はい。
さっき、ガムをそこへ詰めたでしょう。あれ、どうかなあ。
はい。
二人はにっこり笑って、押し込んだガムの紙を取り出した。
そして再び二人は何事もなかったかのように、
おしゃべりを楽しんで、次の駅で降りていった。