蝶ヶ岳に登ってきた<2>

 蝶ヶ岳ヒュッテは、稜線の真上にある。蝶ヶ岳という最高地点は、ヒュッテのすぐ南の、いくぶんヒュッテより高い位置にあるが、ヒュッテの北側に隣接して盛り上がっている別のところに三角点があり、それらを含むなだらかな砂礫の台地が蝶ヶ岳だった。ハイマツ地帯は、稜線の両側斜面を包んでいる。
 蝶ヶ岳ヒュッテの屋根には太陽光発電のパネルが取り付けられ、小型の風力発電のプロペラも回っていた。宿舎の外の小屋に作られたトイレの入り口にドラム缶が置かれ、雨水がそこにためられ、トイレを使った人の手洗い水になっている。ひしゃくで汲まれて洗い終わった水は地面に落ちて厚い氷になっていた。使える水はもうなかった。
 一週間ほど前、ぼくが非常勤で勤務している学校の同僚Tさんは、ぼくが蝶ヶ岳に登ると聞いて、
 「ヒュッテにIさんという女の子が働いていますよ。メール打っておきます」
と言った。Tさんも山登りをする。Iさんはたぶん教え子なんだろう。
 ヒュッテに入って受付で宿泊手続きをした。受付の女の子はニコニコ、ハキハキした子だ。その子に聞いてみた。
 「Iさんという人いますか」
 その子は背をすくっと伸ばし、びっくり眼をした。
 「えっ、私です」
 実はこうこうこういう訳でと話すと笑顔で最敬礼をした。思いがけずぴったしかんかんだったからぼくも笑い出してしまった。
 「何を教えているんですか」
と訊くから、
 「国語です」
というと、また笑いながらぴこんとお辞儀した。愉快な女の子だ。宿泊費は9500円、朝夕の二食つきだ。ロビーには灯油ストーブが燃えていて、温かい。登山客が20人ほどくつろいでいた。
到着した人は順番にいくつかの部屋に案内され、すでに敷いてある布団を割り当てられる。ぼくらも案内されたそこはまだ誰も入っていない部屋だった。窓際に敷かれた布団を5人分確保した。ダブルの敷き布団に二人が寝る。掛け布団と毛布がそれぞれ一枚ずつ、敷き布団の上に置いてある。寝るとき、毛布は二つ折りして、その間に身体をいれ、上から掛け布団をかけるようにと、案内した若い子がそっけなく言った。従業員はみんなアルバイトのようだ。客は全部で70人ぐらいいるように見えた。
 夕食は、5時半から第一団、6時から第二団、ぼくらは第二団のなかに入った。放送が入ってから食堂のテーブルにつく。ぼくらは、ほかの知らない3人の客と、8人でひとつのテーブルを囲んだ。3人は高齢者の男性二人と女性だった。炊き立てごはんの入った木製のおひつが一つ、味噌汁のアルマイトなべが一つ、そして各自一枚のトレイに何種類かのおかずが少量ずつ置かれていた。山小屋の食事は近年、どんどんよくなっていると聞いていたが、それほどではなかった。拓也とHさんがフロントで缶ビールを買ってきた。大きな缶で1本800円だ。みんなで「乾杯」。Hさんが8人一人ひとりにご飯をもり、Tさんは8人のお椀に味噌汁をいれてくれた。知らない人とも8人大家族になる。
 蝶ヶ岳ヒュッテは水不足のようだった。ここは沢から水を引くことができない。全部雨水をタンクにためて使っている。この日、宿舎内のトイレは閉鎖されていて、外のトイレを使うことになっていた。だが、就寝時間から後は中のも使えるようになった。夜中も外のトイレを使うのは不便だし危険だからよかった。
中のトイレでは、使用したトイレットペーパーは流さないで横に置かれた容器に入れる。流し用の水はどうも小屋の横にある小池の水のようで、茶色くにごっていた。
 山小屋の布団は重かった。
 翌朝、水不足のために、手洗いも洗顔も使える水はなく、蛇口から水はでなかった。登山者の半分以上は若い人たちだ。女性の割合は4割ぐらいだろうか。その人たちも、高山の苛酷な自然環境と、下界の普段の便利で清潔な暮らしとは異なる生活とをここで体験し、受け入れている。受け入れざるを得ないということでもある。
 ぼくは17歳からアルプスに登り始めてから、山小屋というものに泊まったことはなく、全部テントだった。山小屋に泊まったのはこの6年前から3回。昔は山小屋には泊まったことはないけれど、山小屋にはよく立ち寄り、のぞくことはあった。天候やルートを聞いたりして、声を交わすことはよくあった。そのころは小屋の主や従業員と登山客との親密な交流があった。
 だが今回、ぼくの見た感じでは、山小屋の従業員たちは、必要な仕事をこなしてはいたが、登山者の前に姿を現して交流する姿はなかった。Iさん以外の人の顔はよく見ていない。大勢の客の宿泊を無事にスムーズに進めていくことに忙しく、余裕がなかったのだろう。考えてみれば、その日その日、いったい何人が宿泊するかも分からない山小屋経営だ。その食事づくりもたいへんな仕事だ。天候を見て、水の使用量も考えねばならない。昔のような牧歌的な山小屋の暮らしは、成り立たないのかもしれない。(つづく)