子ども集団の今(6)


      学級弁論大会で語った女の子のこと


淀川中学の教員になって3年目、学級弁論会を学級活動の時間に開催したときの、
痛恨の迷いを忘れることができない。


教員になってからぼくは、6時間目の授業が終わって下校する前の学級活動の時間をフルに活用した。
学校では、このショートの「終りの学級活動」に10分が予定されていた。
だが、ぼくは学級討論や班活動、学級新聞作り、合唱、文集作りなど、
表現活動をこの時間を使って行なった。
だから終りの会は、一時間を越えることが常だった。
クラス全員のなかで意見を言う、このことは日本の子どもたちは苦手だった。
授業のなかで質問をすることもほとんどなく、
学級会を開いても、意見を言う子どもは少ない、
これが普通だったから、討議のできる子ども集団をつくることを目標にしたクラスづくりをした。
その結果、ぼくのクラスは下校が遅くなる、というのが定評だったが、
様々な自主活動が行なわれ、自分の意見を出し合うのは実に活発になった。
学級新聞を子どもたちが自由に作れるように、
ぼくは教室に謄写版印刷機を自分の金で買ってきて、置いた。
鉄筆で、こりこり音を立てて、原紙に文字を書く。
学級新聞社が一社できると、対抗して別の一社が生まれた。
二社は競うように新聞を発行した。


学級弁論大会は二回開催した。
二回目のときのことだった。
弁士の女の子が、意を決したように話し出した。
「私は朝鮮人です。」
ぼくは身体が硬直した。
私は朝鮮人です。朝鮮人はなぜ差別されるのですか。
彼女は次第に胸がつまり、憤りと悲しみの涙が流れた。
クラスの男子学級委員長、高君も在日朝鮮人だった。
学級新聞社の編集長だった高君の顔はこわばり、真っ青になった。
もうひとり、自ら弁士になった女の子がいた。
その子には両親がいなかった。
彼女は自分の生い立ちを話した。


そのころのぼくは、「在日」の問題に対しては全く認識不足だった。
自分の幼児期には、近所に在日の人たちの居住区があり、
その生活実態から、日本人とは違う貧しい人たちという意識が少し育っていた。
祖父母の家に引っ越した田舎の小学校、中学校時代には、
徐君という学年のヒーロー的な在日韓国人がいた。
彼は運動能力でも勉強でも優れていたが、快活さと積極性がきわだっていて、
小学校の学芸会で劇を演じるときは、主役になった。
野口英世の劇をやったときは英世になり、いろりでひどいやけどをして、
そのために「てんぼう」といじめられたとき、
彼はほんとうに悔し涙を流して英世を演じきった。
中学校になって、南河内郡の中学校合同体育大会の選手に選ばれた徐君は、
藤井寺球場のトラックを、太ももの筋肉をりゅうりゅうとさせて疾走した。
彼はヒーローだった。
それから後、ぼくはほとんど「在日」の問題と出会うことなく教員になった。


在日韓国人朝鮮人のほんとうの歴史と生活実態を知るのは、
教員になってから7年後、被差別部落を校区にもつ、
大阪でもっとも困難と言われていた学校へ転勤して、
そこに勃興していた教育運動の渦中に入っていってからのことだった。
自分の学校時代の教育にまったく欠落していた日本の近現代史を勉強したのはこの時期だった。


学級弁論大会で、自らのことを語った女の子たちのその後を、
学級担任の自分はどうしたか。
認識の欠落していたぼくは、その事後指導を欠落させた。
その後、何をどのようにクラスのみんなに教えるべきか、わからないまま通り過ぎていった。
慙愧にたえないことであった。


子どもたちは、長い歴史のなかに位置づけられた存在である。
子どもたちは、彼らが生きている社会のなかの一部である。
子どもたちは、彼らの置かれている文明に拘束される存在である。
その存在のあり方を知る努力を怠れば、
教師は子どもを知ることはできず、「育てる」こととは何かを考えることができない。