子どもが動き出すとき


       子どもは必ず動き出す(子ども集団の今 5)


子どもらが動き出すとき、というのがある。
子ども集団が形成されていくにつれ、子どもの自主性・自発性が発揮され、
思いがけない発想が子どもの中から生まれてくることがある。
子どもらが動き出す、
これは教師では考えられないような動きになってくる。
この動きが出てくる前段や動きそのものに、
一見ゴタゴタともめるような状態が子どもたちのなかに起こることがある。
自発的な動きがぶつかり合うわけである。
これを見誤って、子どもたちが勝手な行動を取っていると判断し、
それを抑え込もうとすると、元の木阿弥になってしまう。
この動きは次へのステップになると判断できて、それをしっかり見守っていくと、
やがてそれを乗り越える動きに収斂していく。
教師は邪魔せず、しかし判断の誤りのないようにしっかりと観察して、
必要な場合には適切に指導を入れて、
待つことである。
まさに発酵を待つように。


教師の指導が入らないときがよくある。
教師の指導が入らないときは、
言葉が子どもの耳に入っていない。
教師が、「言葉とは言えない言葉」を発しているときは、言葉は子どもに届かない。
子どもも、聴く態度が育っていないから、
テレビを見るがごとく、恣意的になる。
何が何でも先生の言うことを聞きなさい、としつけられたのは昔の話。
聴く耳を持たない子どもたちと、
聴かせる言葉を発していない教師、
この関係では、指導というものは存在しない。
教師は、
子どもに届く言葉を発し、
子どもの動きを育てていく専門家であるはずだが、
ちょっとうまくいかなかったり、
少しゴタゴタしただけで一喜一憂して感情的になって、
一方通行的に音声を発していると、
子どもはますます聴く耳をもたなくなる。
テレビのスイッチを切ってしまうように。
ベテラン教師でも、子どもに届く言葉を発していないときが多い。


子どもは教師を信頼し、
教師は子どもを信頼し、
信頼関係をつくる。
それが重要なテーマになる。
教師の発する言葉に魂がこもっているときには声は言葉として届く。
子どもを否定して嫌悪している人の言葉は絶対に届かない。


子どもと教師のつくりだす関係の中で、子どもは創造的に動き出す。
「架け橋をつくる日本語」のなかでも書いたが、
ぼくは、この子どもが動く典型を示している実践を「やまびこ学校」(無着成恭編)のなかに見る。
あの時代と今とは違う、と一蹴してしまうなら、
古典から、典型から学ぶことはできない。
時代がどのように変わろうが、子どもの本質、普遍性は変わらない。


報道によれば、
長野県では、かつていじめにあった人たち8人の青年を学校に派遣して、
講演会を行なっている。
その人たちは、自分の学校時代の体験を子どもたちに話してまわっている。
この講演がきっかけで、ある学校の子どもの中から、自発的な動きが起こった。
それは、「いじめ撲滅委員会」というもので、
そうしようと考えた生徒が、ひとりひとりと増えて、
呼応して集まって100人を越えた。
子どもが動き出して、会議を行い、
胸に意志表示のしるしをつけて、行動している。