子ども集団の今 (3)


         いじめ


子どもにとって、友だちのいない生活は砂漠のようなものだ。
かつて巷のいたるところに見られた、
楽しくて楽しくてたまらなかった自由な子ども世界が消えてしまってから、
子どもが子ども同士で魂を燃焼させ、もまれて育つ場がやせ衰えてしまった。
友だちの汗の匂いも嗅ぎ、身体をぶつけて遊び、
年上の子のうまさに感心し、年下の子をかばう優しさに触れ、
「あした、また遊ぼ」と、
夕方、名残惜しげに我が家に帰っていった隣近所・地域の友だちの世界は、
かけがえのない子どもの居場所だった。
学校で「いじめ」があっても、隣近所・地域に居場所があれば、
子どもは解放され、魂は救われた。
それが消滅してしまった今、それに代わる居場所を街に作る必要があると、
実践し始めている人たちがいる。
実際にこれからそれを創り出さねばならないが、
同時に、学校という場はどうあるべきかというテーマがある。


学校という世界は、国の教育システムによって管理される場であるから、
子どもの魂の居場所になりにくい要素が付随している。
学習の場で、運動の場で、活動の場で、
「できる」「できない」、「上手」「下手」、「強い」「弱い」、
「明るい」「暗い」、「かっこうよい」「こっかうわるい」など、
いろんな評価が、意識的、無意識的になされて、
子どもたちも、社会的につくられた評価に左右されている。
評価意識に最も影響を与えたのがテレビだった。
マイナス評価で嘲笑したり罵倒したりする番組が人気を得ていたことが、
この異状を促進してきたのかもしれない。
「ぶす」「ちび」「たんそく」「でぶ」「きたない」「どんくさい」
「きもちわるい」「あほ・ばか」「びんぼう」「ばいきん」「びょうき」・・・


「いじめ」を醸成してきた社会。
そのなかにある学校に子どもが集まる。


教師たちもまた社会意識に影響されている。
教師の意識が子どもたちを見る眼に現れる。
教師の人間性が、その指導に反映する。


「いじめ」を発見する眼、
「いじめ」を嗅ぎ取る嗅覚、
それをもっている教師が指導性を発揮するときに、
信頼される関係が生まれる。
クラスがばらばらで、子どもが集中しない、
子どもの中の力関係にクラスが翻弄される、
疎外される子どもがいる。
そこに打つ手を考える。
「めだかの学校長」先生が書いておられる強い指導性、
それがいる。


ぼくは昼食のときに、子どもたちを見ていて異状を感じ取った。
給食制度のない中学校だったから、
パンを買ってきたり、弁当を持ってきたりしていた子どもたちのなかに
一人で黙って食べている、表情の硬く暗い子を見つけると、
他の子らの無視を感じ取った。


子どもたちに生活ノートを書かせる、教師はそれを読んで返事を書く、
子ども一人ひとりと対話する、
真剣に会話する、
核になる子を育て、その子らと対話する、
学級活動に遊びやスポーツを取り入れる、
放課後、地域や野外へ出かけていく、
家庭訪問を日常的に行なう、
さまざまなアプローチを考える。


四面楚歌のような気分におちいっているときは、指導は入らない。
おちこんでいる心境は、子どもらに響かない。
余裕を持って、おおらかに、楽しく、子どもの世界をつくっていく、
そんな教師になっていくために、
やらねばならないことがある。
「鈍といこ」先生の言っているのも一つ、
「子ども集団づくりの実践は、教師集団づくりでもある」。