子ども集団の今 (2)


     いただいたコメント


11月6日の「子ども集団の今」について、こんなコメントをいただいています。


再度、要旨を紹介します。このコメントについて、また意見を交換できるといいなと思います。私も考えたところを出していきたいです。


ミチさんは、NHK・ETV特集の、民間から校長になった人の活動の記録を見て、意見をくださいました。

子どもが自分の頭で考えて、グループで討論する、思ったことを出して、人の意見を聴いて、「あ、そっか…」と考え直す、先生はそれを見守り、導いていく、それが大切だという民間出身校長の発想、そしてさまざまな実践を、民間出身だからできるのかという感想でした。


圭さんからは、 フリーに意見を出し合う場を作ってみた経験をいただきました。

学期のはじめに、どんな学期にしたいか、どんなクラスにしたいか、指名なしで、フリーに意見をいう会を、机をまるくしてやってみたら、小学校2年生でも、意見が驚くほど出た。言葉や語彙が足りなくて、ほんの少しのことを言うのに、何度も質問を受けて、なんでみんな分からないのかなあ、とつぶやく子もいた、ということでした。


めだかの学校長さんは、めだかの学校の危機!についての報告です。

今のめだかは群れなくなった。かつて、めだかは、みんな凛々しく泳いでいた。今、めだかの一部に「しんどいよ」「なんでみんなと同じことせなあかんの」「いやや」とまるで幼児のようなだだっこが出現する。一人が言い出すとみんな幼児がえり現象。ちりじりになり、互いにつつきあい、弱い奴をいじめ始める。本当は、めだかはめだかになりたがっている。本来のめだかの姿にあこがれている。でも、強い力で何らかの形の鞭を使わないとめだかになれない。

今の子どもたちを集団に育てていくには、指導者がボスとなり、リーダーシップを持つことが必要で、ボスになることに失敗すると、はねっ返りが来て、若い新任の先生たちもベテランの教師もダウンする。教師がクラスのボスの座を確保して初めて、集団作りが可能になる。この頃の子どもたちは、正しいことにつくのではなく、強いものにつく傾向が強い。強いボスに守られ、安心できるときに、子どもたちはルールを守り、友達に優しくなれるようだ、という報告でした。


鈍といこさんは、集団づくりの本質的な実践方法を紹介してくださいました。

四月の開始前に、どんなクラスに、どんな集団に、どんな授業を、どんな遊びを、と描き、しくみと取り組みを考える。そして、班づくり、班長会、係活動を行い、一人一人の子どものよさが活かされ、自治能力もついてくるように、しんどいところも出し合う。理不尽なことには決してだまっていないで討議する。

いろいろな問題は、その子自身のテーマであったり、背景にある家庭のしんどさからくるものであったりする。それを本人から出していけるように教師は子どもと個別で話をしたり、生活ノートなどを利用してみんなの中に出していけるようにしていく。

一人のしんどさをクラスの中に出すことをめざして、まず教師に出せるように、教師と子どもの関係を地道に作っていかねばならない。同時にそのしんどさを受け止められる学級集団を育てるために、今こそという時をねらってみんなに投げかける。これは教師の真剣勝負だ。一人のしんどさをクラスで共に考えることができれば、個々に持ついろいろなテーマが出されるようになってくる。
すると共感、葛藤する場面が必ずでてきて、解決まではいかないかもしれないが、自分達で考えていこうとする土壌が生まれてくる。これをじっくり育てていくのが教師の仕事だ。

しかし、一人ではむずかしいから、先輩の教師に聞いてもらったり、同年代の教師と飲みながら話したりする。自分の場合、学級集団づくりを学びあう小さなサークルをつくった。学級がしんどくても、自分の実践をさらけだし検討してもらい、そこで学んだことを力にしてつぎの日からまた子どもと実践していった。

今、集団づくりを語る場が学校にはない。教師は個々にやっていて、なかなか子ども集団が見えてこない。

学級崩壊、集団未形成で潰れていく学級がどこの学校にもある。そうなる原因はどこにあるのか、目指す集団にしていくために、切り口はどこにあるのかじっくり探りながらやっていくしかない。でも一人では出来ない。集団づくりの実践は、教師集団づくりでもある。