北海道の事件に思う


      子どもを観る眼


「お詫び」という「形」の報道は、もういい。
見たくも聞きたくもない。
生の声、
生身の人間の声を聞きたい。


田んぼの畦を歩きながら、
何千何万の稲の穂を漫然と眺めていても、
見えはしない。
観る眼をもった農民は、
稲穂の海の一点の、
微妙な変化を見逃さない。
「イモチが出た。」
小さな斑点を見つけたら、
次の手を打つ。
だから農民は毎日、田んぼを見回る。
畦にたって観察する。
水はどうか、肥料はどうか、病気はどうか。


クラスの中にうごめく、見えない感情。
わずかな力の流れ。
漂う心の動き。
感性の鋭い教師はかぎわける。
観察眼は見逃さずとらえる。


休憩時間、
運動場の子ども、廊下の子ども、
教室にいる子ども、
遊んでいる子どもたちをそれとなく観察する。
気になるあの子をそれとなく眼で探す。


給食時間、食べている子どもたちを眺める。
食は進んでいるか、
話しながら楽しそうに元気に食べているか。
一人で黙々と食べている子はいないか、
ひとりぽっちになった子は、
黙って一人で食べている。
表情は固く、冴えない。
クラスのなかの、力の流れが一目瞭然、
見えてくる。


「さようなら、さようなら」
下校していく子ども、
声をかけたら反応が返ってくる。
返ってくる声の響き、
帰って行く子どもの歩み、
連れ立っていくつながりを見る。
ひとり離れて、帰っていく子はいないか。


その眼を持っているか、
その眼を養っているか、
子どもと深くかかわる教師が培ってきた、
子どもを観る眼。
子どもと深くかかわればかかわるほど、
教師は子どもの表情を、
声を、
子どもと子どもの距離を、
読み取る。


もっと深く、
もっと自然に、
子どもを見守り、
キャッチする
教師の声を聞きたい。