北海道の事件に思う(2)


      遊ぶ先生、遊べる先生


先生、もっと子どもと遊びなよ。
遊べば見えるよ、
この子は、こういう子だったんだ、
と思うようなことを感じる、分かる。
観察しようとして目を光らせるよりも、
子どもの丸ごとが分かる。
そして、子どもと子どもの距離、
先生と子どもの距離が、
確実に変わる、もっと近づく。
距離が変われば子どもが変わる。


動物や植物を観察するみたいに、
子どもを観察するのではなく、
先生の行なう観察は、
子どもとの活動や接触を通して自然に行われていくものです。
授業の中だけでは一面的、
いちばんは遊びです。
ただし、本気で先生も遊びを楽しまなければダメです。


遊び? 何をするの?
どんな遊び? 分からないですよ。
だれも教えてくれませんでしたよ。
大学でも、研修でも、そんなこと教えてくれなかったですよ。
それに、子どもは乗ってこないと思います。
私たち自体も、忙しくて、
休み時間や放課後に、
クラスの子と遊びなんかする暇はないですよ。
そんなことしたら、親からクレームが来ますよ。
先生が子どもと遊んでいる、
やめてください、
もっとしっかり教えてください、と。


だいたい子どもは遊びの天才のはずだけれど、
今はその神通力も衰えてしまった。
石ころからでも、木の枝からでも、
古釘からでも、かわらのかけらからでも、
草からでも、布切れからでも、
土からでも、水からでも、
昆虫からでも、
この地上のあらゆるものから
子どもは遊びを創作してきた、
何千年何万年の子どもの遊びの歴史がある。


自然物から遊び道具を生み出し、
ルールを定め、
仲間とそれを使って遊びに没頭した、
遊び創造の、天衣無縫の子ども時代が、
ある方向に傾斜してきたのはここ数十年の間。
おもちゃ屋におもちゃは山と積まれ、
ゲーム機とソフトが光を放ち、
子どもの目が光る。


おもちゃというものは、
店で金を出して買うものではなかった。
「昔子ども」であった、遊びの天才の親がいたら、
我が子に手作りのおもちゃを作ったり、
遊び指南をすることもあったが、
おおかたは、地域の子ども社会のなかで遊びを継承し、
生活の中から遊びも遊び道具も生み出した。
それが子どもの時代というものだった。


技術の進展と経済発展にともない、
子どもの遊び創造は「貧しく」なった。
貧しさと豊かさの逆転現象。
その「貧しさ」のなかで「豊かに」育った親、先生。
だから、親も先生も、遊び創造を知らない、遊びが下手。
遊びの醍醐味を知らない。


学級活動の時間や休憩時間や放課後に、
先生、もっと遊んでくださいよ。
職員室の机に座って、しかめ面をしているより、
ずっと価値がありますよ。
雑務とかいう仕事よりも、
一日一回、たっぷり濃厚な群れ遊びを、
子どもと汗をかいてくださいよ。


実は、遊びの中で学ぶことが、人間の育ちに欠かせない。
そのことを知らない教育行政や管理職が、
今の教育を推進しているから、
ただただ先生は忙しく、
管理やきまりばかりが肥大し、横行する、
本末転倒の教育になってしまっている。


地域に子どもの群れ遊びがなくなってしまった現代、
地域の子どもが集る唯一の場所は学校と塾。
先生、もっと子どもと遊んでください。
直接遊ばなくても、
遊んでいる子どもを楽しんでください。
教育行政も管理職も、雑務を合理化して、遊びの時間を増やすことです。
「こんなことが二度と起こらないようにします」
と頭を下げて、
管理を強化しても、おそらく何も変わらないだろう。