勇気ある発言


         サツマイモの弁当


戦争が終わって3年目の夏のこと。
小学校5年生のぼくのクラスに、
町の学校から一人の男の子が転校してきた。
河内のガラの悪いやんちゃ坊主たちは、まだはだしで遊んでいた時代だった。
転校してきた子の名前はクワタくん。
クワタくんは、土の匂いもワラの匂いもしなかったが、
すぐに河内のやんちゃの中に入って遊んでいた。
やんちゃ連中は、クワタくんに「おにぎり」というあだなをつけた。
クワタくんの頭は、おにぎりの形をしていた。


担任の先生は独身の若い女の先生だった。
先生はクラスの中に、学習班をつくった。
やんちゃ連中は、ガキ大将のコウイチを先頭に動物班に入った。
動物班は、動物のことを研究する。
男子の四分の三は、動物班に入り、残りの四分の一は気象班に入った。
気象班に入った者は、コウイチの家来にならない者たちだった。
その一人はトシヒコ。
トシヒコは日本が戦争に負けた後、中国から家族一緒に引き揚げてきた。
小柄なトシヒコは、けんかに負けそうになると、相手の腕にかみついた。
かみつかれた子の腕には、歯形が残った。
彼は日本の鉄道路線のことをよく知っていて、
北海道の○○線は、何駅から何駅までと即座に答え、
先生はいつも感心していた。
気象班の頭脳はタケシだった。考え深く、社会のことをよく知っていた。
タケシには親がいなかった。
タケシは農業をしている祖父母と暮らしていた。
ぼくも気象班だった。
ぼくは小学校一年生の時に、大空襲を受けた大阪市から疎開を兼ねて、
その町に引っ越してきていた。


動物班は、いつもがやがや集まって遊んでいる。
ある日、動物班はコウイチのあとについて教室から出ていった。
動物を探しに行ったのだが、一時間経ってからただ遊んでぶらぶら帰ってきた。
それから、動物班は先生の言うことを聞かずに外へ遊びに行くようになった。
先生は泣いていた。


転校してきたクワタくんは、気象班に入った。
そのころはまだ、日本国中が食糧難で、食べる物が不足していた。
午前中の授業が終わってお昼になると、
食べる物のない子は、運動場で何も食べずに遊んでいた。
家へ食べに帰る子もいた。
ぼくも麦飯の弁当を持ってこれない日は、家に食べに帰ったりしていた。
給食はまだなかった。


秋のさつまいもの季節になった。
ある日の弁当の時間のこと。
クワタくんが、大きな声で言った。
「サツマイモの弁当、もってけえへんか。」


一瞬、みんなはしんとした。
その声にみんなの意識が集まり、つづいて、
オレ持ってくる、オレ持ってくる、という賛成の意見が相次いだ。
心を束縛していたものが、この一言で解き放たれたかのように。


翌日、ぼくは母に頼んで、輪切りにしたサツマイモの焼いたのを、
新聞紙に包んでもらい、いそいそと鞄に入れた。
さつまいもの入った鞄をさげたぼくは、
張り切って歩いた。
もう恥ずかしいことはない。


我が家でもサツマイモを作っていた。
サツマイモの季節になると、
毎日毎日、食事はサツマイモだった。
それを弁当にもっていけるのだ。
うれしかった。
みんなも持ってくるんだ、サツマイモ。
ぼくらはサツマイモ仲間だ。
ぼくは胸を張って歩いた。