白馬村での夜


        白馬村での夜


お盆の夜、白馬村にぼくらはいた。
あれから半世紀、突如北さんが言い出した。
酒の勢いもあった。


あの激しい地吹雪の登高の最中、
チョコレートを食べたいと、金沢が言ってると、
ヨッしゃんが言うたか、平岡が言うたか。
あるいは、オレが金沢の言葉を直接耳にしたのか。
オレは、それで直登した。


ぼくと平岡は否定する。
そんなことは聞いていない。
あの猛烈な地吹雪のなかで、金沢がそんなことを言ったとは考えられない。


いや、しかしその言葉があったから、
オレは直登した。


四人は北さんをトップにピッケルを突き刺して、
ラッセルしながら雪をこいだ。
一歩上れば半歩足場が崩れ落ちた。
左手に、暗い吹雪をついて、斜めに上っていくゆるやかなルートが見えていた。
なぜそちらへルートをとらなかったのか。
その疑問に北さんはこの話を出したのだった。


結局その直登が原因で雪庇が崩壊し、雪崩が発生した。
斜面を登りきることを急いだ、
その判断が金沢の命を奪った。


あのとき、なぜぼくはルートを変えようと言わなかったのか。
左の方へルートを変えたほうがいいと、自分は考えていたのに、
それを言わなかった。
ぼくの反省点はそれだ。
言うべきときに言わない、
このことは人生を通じて、
ほかのことでも思い当たる。


オレたち四人はあまりに未熟すぎたのだ。
結論は未熟さだ。


あの日の前日、ぼくと北さんは激しい吹雪をついて、偵察に出た。
視界が利かず、下山ルートを見失い、
リングワンデルングにおちいった。
あわやビバーク寸前に、視界が一瞬開け、
事なきを得て、ベースキャンプにもどることができた。
キャンプには、数日間下痢をしていた金沢が平岡のサポートを受けて、
上って来ていた。
翌日、四人はテントを出た。


なぜ体が弱っている金沢を登攀に加えたのか。
議論は、遭難前後のことに移っていった。
雪崩の直後、ピッケルを臀部に突き刺して傷を負った平岡は、
救援を求めてデポしてあったスキーで下山していった。
眉間を切った北さんと無傷のぼくとで、
雪のかなの金沢をさがした。
ぼくの突き刺したピッケルへの手ごたえで金沢を掘り出すまでの対処、
そこに問題はなかったか。
掘り出してからの人工呼吸などの救命処置もまた
あまりにおそまつだった。


未熟さ、それが金沢を死に至らしめた、


だが、何歳になっても人間は未熟だと思うぞ。
人間の犯すあやまりは、減じることなく続いている。
集団なら集団で、
個人なら個人で。


北さんが最後に言った。
半世紀近く時を経て、
これまで胸にしまっていたことを話し合えた。
今夜は、金沢のいい供養になった。
金沢の記憶の中の顔は21歳のときのままだ。