八月六日

 
      八月六日


八月六日がどういう日なのか、
質問したら知らないと答える子どもや若者が増えた、
と年老いた被爆者は、学校での平和学習の空洞化を嘆く。
半藤利一氏は、
日本はどこの国と戦争したか、とアンケートをとったら、
アメリカと答えなかった大学生が何人もいた、
と危機感を訴えていた。


六日の朝、広島平和公園からのTV中継。
あの日と同じ、日差しは暑い。
原爆の熱線は、この熱さを数百倍する、
焼かれて死んでいった人たち、
放射線で死んでいった人たち。
セミが鳴いている。


八時十五分、原爆投下の時刻、
平和公園で行なわれている慰霊の式典、
黙祷の声がかかった。
毎年、ぼくらも我が家の居間で起立して黙祷する。


広島市長のあいさつは、
いつも被爆の体験から発する原点をはずれない、
怒りと悲しみ、人類への願い・訴え、そして希望。


だが、首相のあいさつ、
心のこもっている人間の言葉、感情のない。
大急ぎで紙を読む、
型どおりの、おざなりの、棒読みの。


日本国民を代表して、
世界に発する、
ほとばしるような心の訴えが感じられない。
本気でメッセージを世界に発しようとしているとは思えない。
すべてを表している。


何より心に迫ったのは、子ども代表のメッセージだった。
男の子と、女の子、
女の子は日本国籍アメリカ国籍をもっている子どもだった。


八月六日、
青年教師だった頃、
北アルプスの三俣蓮華岳から薬師岳への稜線を歩いていた。
その時刻、
一緒に登山していた社会人になっていた教え子が、
声をかけてきた。
ぼくらは重いキスリングザックを肩から下ろし、
黙祷をした。