無言館へ行った


        戦没画学生慰霊美術館「無言館」へ行った


上田市郊外、塩田平の丘に無言館はあった。  
近くの寺の駐車場に車を置くと、
じりじり照りつける乾いた道を行く。
顔中汗だらけの中年の女性と出会い、道を訊くと、
いま無言館へ行ってきたところです、
と汗をぬぐいながら、雑木林を斜めに上っていく道を指差してくれた。
山々に囲まれた盆地が下方に広がっている。


コンクリート打ち放しで造られた、
質朴な美術館の入り口に係りの人の姿はなく、
木のドア一つ開けたら、
いきなり薄暗い展示室、
横向きの裸婦の絵が目の前にあった。


「あと五分、あと十分、この絵を描きつづけていたい。
外では出征兵士を送る日の丸の小旗がふられていた。
生きて帰ってきたら、必ずこの絵の続きを描くから、
安典はモデルをつとめてくれた恋人にそう言い残して
戦地に発った。
しかし、安典は帰ってこなかった。」
絵の下の説明を読む。
日高安典 フィリピン、ルソン島で戦死、27歳。


絵の具がはげおちた、保存状態のひどい油彩があった。
椅子に座って正面を向いた裸婦、「妻の像」。
中村萬平が戦地から妻・霜子に送った手紙が、展示されていた。
「其の後の様子はどうか。お父さん、お母さん、おばあちゃんと
仲良くやってくれるだろうね。お腹の赤はあばれるだろう。
俺にかはって、親孝行と赤を大事にそだてるのとを引き受けてくれ。
こちらは大分寒いがいい修養だ。
俺の学友、後輩、知人らに、手紙を出してくれ。
軍隊でくれる着物で充分だから、余分の心配はせぬやう、
体に心掛けねばならぬよ。」
萬平が出征してまもなく、長男が出生。
しかし、その半月後に妻霜子は他界する。
妻の死を祖国からの手紙で知った萬平は、
戦地にのぼる満月をあおいで泣いた。
萬平は、モンゴルの野戦病院で病死。
26歳だった。


家族の団欒を描いた油彩があった。
伊沢洋の「家族」。
真ん中に小テーブルがあり、
みかんとリンゴが乗っている。
中央に父親が新聞を読んでいる。
その左に母親、そして本を持った兄。
父の右に洋、その隣は姉だろうか妹だろうか。
絵の下の説明に、兄の言葉が書かれている。
「うちは貧乏な農家だったから、
こんなふうな一家団欒のひとときなど味わったことがなかった。
きっと洋は戦地で、
両親や私たちとの幸福な食卓風景を空想して
この絵をえがいたのでしょうな」
伊沢は、召集令状を受け取った翌日、
生家の近所を描いている。
ひっそりと一本の村の道が、緑の間を通っている。
伊沢洋は、ニューギニアで戦死。享年26歳。


前田美千雄は、戦地から妻に七百通をこえる手紙・絵葉書を送っていた。
どれも生きて帰るまで待っていてくれという愛の便り。
だが、美千雄はフィリピン・ルソン島で戦死。31歳。
妻は生涯、絵葉書を暗記するほど読んで暮らしたという。


須原忠雄は29歳でシベリアで戦病死。
「柑橘実る頃」という100号を越える大作は、
みかんをもぐ、三人の野良着姿の若い女性が描かれている。
もし生きて戦後も絵を描き続けていたならば‥‥。


20歳の佐藤孝が出征前に記したノートが遺されていた。
「遺書に非ざる言葉」と書かれたページの冒頭に、
「一、 私には既に私に与えられた運命がある。
二、私には私だけしか持てぬ世界がある。」
と書かれている。
佐藤は学徒出陣で戦地に向かい、フィリピン・ルソン島で戦死、
21歳だった。


23歳で、「満州」で戦病死した太田章の
「海へつづく道」は、遠景に海があり、
海辺に子どもをおんぶした母のうしろ姿の点景がある。
「繕う」は、繕いものをする母の姿であろうか。
「和子の像」は、妹のゆかた姿。
ふるさとを描いて彼もまた出征した。
妹・和子は、この絵と共に70を越えて生きたという。


蜂谷清は、フィリピン・レイテで戦死した。
ひときわ目を引く「祖母の像」。
赤い着物を着た、真正面からこちらを見つめる祖母。
「清は祖母なつに特別かわいがられた。
戦争が始まった頃、清はそのなつの顔を、
精魂こめて描く。
ばあやん、わしもいつかは出征せねばならん。
そうしたら、こうしてばあやんへ顔も描けなくなる。
清がつぶやくようにいうと、
なつは、うっすらと涙をうかべただけで、
何もいわなかったという。」


マーシャル諸島ブラウン島で、
27歳で戦死した清水正道。
彼は木曾で生まれた。
応召したのを家人に告げず、戦地に向かう。
遺作のほとんどは物置の雨漏りにさらされ、
たった一点の日本画だけが残った。
「婦人像」、ゆかたを着て、うちわをもって座っている若い女性。


一編の詩が、コンクリートの壁に掲げられていた。


遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ
私はあなたを知らない。
(略)
愚かな私たちが あなたがあれほど
私たちに告げたかった言葉に
今ようやく 五十年経ってたどりついたことを

どうか許してほしい
五十年を生きた私たちのだれもが
これまで一度として
あなたの絵のせつない叫びに耳を傾けなかったことを
(後略)


窪島誠一郎氏が、1997年、この無言館を設立した。
美術学校に在籍し、あるいは卒業した画学生三十余名の、
遺作三百点を展示した私設美術館である。
展示室は、十字の形をしていて、
一画が少し長い。
ああ、これは十字架の形なんだと思った。


美術館の出口で、
五百円から千円の志を渡して、
館を出ることになっている。


この暑さの中、女子高校生も来ている。
ひっきりなしに人が訪れる。
絵は無言。
観る人たちも無言だった。