快・不快と、追究・追及


        快・不快と、追究・追及


期待したことが期待どおりにならなかったとき、
感情の波立つ場合がある。
問い合わせたのに返事がない、
返事があって当然ではないか、
気が悪くなる、不快になる。
そこで起こるのが「邪推」、
人の行為を悪く推察する。


「気を悪くする」の「気」は「気分」、
「気分」とはなんだろう。
辞典には、
「その人がその時どきに持つ、快・不快などの総合的な心の状態」
とある。
思いどおりにならなかったら、
快く思わない、嫌な気分になる。
この気分の動きは、快適な生活を求める人間につきまとう。


だが、どうしてそのことが不快なの?
思いどおりになったら気分がいいさ、
食べたいときに食べられるほうがいいだろう。
じゃあ、思いどおりになることと、ならないこととでは、
人生で、どちらが多い?
そりゃあ、思いどおりにならないことでさあ。
じゃあ、そのたびに気分を悪くしてるのかい。
ものごとによるわさ。
どんなことだったら、気分が悪くなるのさ。
当然だと思っていることが、当然でなかったときかな。
どうしてそのことが当然だと思ったり、当然でないと思ったりするのかい。
頭の中に期待濃度があるのさ、自分の基準かな。
それにさ、当然だと思っているにしても、
そのとおりでなかったら、どうして心が不快になるのかねえ。


夫婦で外出する。
雨が降るといけないから傘を持っていこう、
夫が言った。
邪魔だから、置いていきましょう、
妻が言った。
傘を持たずに二人は外出したが、途中で雨が降ってきた。
だから言っただろう、
たちまち夫の気分は不快指数アップ。
呼応して妻の気分も悪くなる。
ありゃりゃ、降ってきたか、どうする?
それから先のことだけを考えたら、
夫婦は気分を不快にすることもないのだが。


追究と追求と追及は異なる。
追究は、どこまでも研究し明らかにしていくこと。
追求は、手に入るまであらゆる手段をつくすこと。
追及は、責任を問い、逃げるものを追い詰めること。


ことがうまくいかなかったときや、
問題が起こったとき、
原因を追究する人と
責任の追及をすることに専念する人とがいる。
自分の中に両者が同居していて、
そのときどきでどちらかが現れてくることもある。
追及バッシングを売りにするマスコミ、週刊誌もある。
それが不快人間をあおりたてる。
社会のムードをつくりだす。
カップで負けたとたん、ジーコや選手追及の記事が出てくる。


企業や官公庁、学校や病院や地域の集団でも、
社会や国の風潮にも言えることは、
不快指数に左右されて追及するよりも、
まずは原因の究明をすることだ。
そこから何をすべきかが見えてくる。
自戒すべきことだと思う。