近藤芳美の歌

  

         近藤芳美の歌


歌人、近藤芳美さんが六月二十一日に亡くなった。
近藤芳美は、日中戦争に召集されて中国戦線で兵として戦ったことがあり、
その体験から戦後、戦争を重要なテーマにして詠った。
その軌跡は、宮柊二に似ている。
戦争体験では、はるかに宮柊二のほうが長く、悲惨だったが‥‥。


佐々木幸綱が、今日の朝日新聞(06・6・28)に、
「妻を愛し『戦争』と『良心』を歌にした近藤短歌、
反戦歌人」について書いている。
佐々木幸綱が紹介している歌の中に、次の歌があった。


崩れたる壁より深く月射して銃抱く一人一人を照らす
        (『吾ら兵なりし日に 早春歌・補遺』、75年)


佐々木幸綱は、この歌の背景を、
「銃撃戦で破壊された民家で兵たちが銃を抱いたまま仮眠している」
「場所は武漢三鎮と呼ばれた揚子江(長江)中流の要衝・武昌」
と記している。


武昌の地はなつかしい。
今は巨大な都会になったが、
1970年代にはじめて中国に招待されて行ったときの武漢はひなびた街で、
レンガを積んで造られた民家が、九月の強い日差しを照り返していた。
そのときは中学校と町工場を見学した。
中学校の男子生徒はみごとな筆づかいで、
一枚の書を、ぼくら一行に贈ってくれた。
その書には、長江にちなみ、
「(日本と中国の)源は遠く 流れは長い」
の語句があった。
二回目の訪問は、武昌の武漢大学で2002年から一年間、日本語を教えた。


近藤芳美は、揚子江上で作業中に負傷して入院、
その入院中に結核を患い召集解除、帰国して終戦を迎えたという。
武漢は日本軍の戦略基地だった。
武漢大学のキャンパス内にあるル−チャ−山には、
日本軍の野戦病院があったことを武漢大学の職員から聞いた。
今も山の上には、そのときのものだろうか、
トーチカとタコツボらしきものが、十数基残っている。
ぼくは何度もそれらを眺めながら山を歩いた。


武漢の漢口と武昌をへだてる揚子江には橋がなかった。
行き来は船だった。
今は長江大橋がある。
それでも、渡し船は活躍している。
学生の案内で一度それに乗った。
とうとうと流れ来る長江の水面に手が届きそうだった。
大橋を車に乗って渡るより、
川風に吹かれ、水を眺めながらの横断は、
遠い過去、はるかなるものに触れていく一服の旅情だった。


中国はソ連の支援を受けて長江大橋の建設にとりかかる。
だが、中ソ関係の悪化からソビエトの技師たちが引き上げ、
そのあと中国は自力更生のスローガンをかかげて橋を完成させた。
はじめて武漢へ行った時は、それが完成した後だった。


近藤芳美の歌、

世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ
               (『埃吹く街』 48年)

晩年の歌、

 戦争が業ならばその業の果て返る静けさを生きて誰が見る
               (『岐路』 04年)