宮柊二の従軍記録


         歌人宮柊二の従軍記録


日本文学を中国で紹介しておられる河南師範大学の劉徳潤先生から、
宮柊二の所属部隊とその部隊の戦闘相手についての問い合わせが二年前にあり、
新潟の宮柊二記念館に問い合わせたことがあった。
記念館の館長さんは、従軍の記録も合わせて送ってくださった。
ぼくはそれを劉先生の方へお知らせした。
劉先生はぼくのHPを読まれて、宮柊二の歌はすぐれた反戦文学であると讃えられ、
問い合わせてくださったのだった。
「架け橋をつくる日本語」には、そのことは掲載できなかったので、
ここにその一部を記録しておこうと思う。
劉先生は、中国に日本を、日本に中国を紹介して、架け橋をつくるすぐれた活動をなさっておられる。


1939年(昭和14)柊二、27歳
  5月 富士製鋼所に入社。
  8月 召集令状来る。

  
   遠きより伝はりきつつふるさとの夜の電話に低き姉の声

   こころばへ淋しくなりて私語(ささめ)けり悔いあらぬ兵を遂げむと思ふと


      歩兵第三〇連隊留守隊に応召。


   咲きそめし百日紅のくれなゐを庭に見返り出征(いでた)たむとす


      第二中隊に編入
  10月 大陸へ出発前の一時帰休、師、北原白秋を訪ねる。


    短気に死ぬなと宣らして色冷やき虫除け網戸に眼やりましき


  11月 独立混成第三旅団歩兵第一〇大隊交代要員として出発。
      門司→釜山→朝鮮国境→山海関→山西省寧武
  12月 独立歩兵第一〇大隊第二中隊に編入
      戦闘に参加。


1940年 28歳
      山西省の各作戦に参加。
  9月 歩兵上等兵となる。


   山上のトーチカの空青く清み吊るせし鐘もありありと見ゆ
   片寄せて綾目(あやめ)も分かぬ夜のかはらを睡りつつ行きいくたびも転ぶ


1941年 29歳
  4月〜6月 中原作戦に参加。
  6月 陸軍兵長となる。
  8月〜10月 山西、河北両省の山岳地帯の粛正作戦に参加。
 11月 陸軍伍長となる。
     鼻と胸部疾患の疑いで陸軍病院に入る。


   あかつきの風白みくる丘蔭に命絶えゆく友を囲みたり

   父も母もその子の匪(ひ)も帰り来よ燈影差して神位(かみ)も舞はむぞ


1942年 30歳
  5月 原隊復帰。
 11月 北原白秋死去の報を受ける。


   凌ぎつつ強く居るとも悲しみに耐へかねる夜は塹(ざん)駆けめぐる

   地下足袋にはちまきの兵過ぎてゐつ月落ち方の胡桃の樹の下   

   かはらより夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずをれて伏す


1943年 31歳
  3月 陸軍軍曹となる。
     各種作戦に参加。


   汝が遺骨捧げわが乗る自動車は反動して埋没地雷を幾たびも避く
   おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

   たたかひの最中静もる時ありて鶏啼けりおそろしく寂し


  9月 転属のため日本に帰り、第二機関銃中隊に転属。
 10月 召集解除。
     自宅に帰る。職場に復帰。
   
   亡骸(なきがら)に火がまはらずて噎(む)せたり
   互(かたみ)に語るもおもひ出でてあはれ


1944年 32歳
  3月 結婚。

1945年 33歳
  6月 臨時召集。
     東部36394部隊三宅隊に入隊。
     茨城県土浦方面を守備。
  8月 終戦
  9月 召集解除。


    中国に兵なりし日の五ヵ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ