おじぎの謎


        K先生のおじぎの謎


そういうことがあったのだ。
その記憶が深く心に残っていて、
40年以上になっても「なぜ?」と問いかけるのだ。
海三郎君の書いた次の文章だった。


<ぼくは、中学生のときに出会ったKという国語教師を思い出す。
K先生は、授業が終わるといつも深ぶかとおじぎをした。
それは、生徒にするにはまったく不似合いな深いものだった。
ほんとうに深ぶかとしかいいようのないおじぎだった。
下校時に出会うと、帽子をとり、やはり「さようなら」と深くおじぎをした。
その頃は気にもしなかったことだったが、それがなぜだったのかが分かったのはつい一昨年のことだ。
中学時代の何人かが集まり、O、Hの二人の教師を囲んで食事をしていたときだった。
K先生のことが話題になり、おじぎの話になった。
当時、新任だったO先生がある日、
「ぼくらみたいな若い者になぜそんな丁寧に」
と訊ねると、K先生は、
ぼくは戦友とついに挨拶もせずに永別してしまったから、
といったという。
あんな悲しい思いはもう自分だけでたくさんだ。
君たちはそんなことにならないようにと思って、
といったという。
ぼくは、大江氏が「戦後民主主義」の第一世代なら、
ぼくらは第二世代だと思う。
ぼくらは、このような第一世代の教師たちに実に多く教えられてきた。
これらの人たちが戦争をくぐって胸に刻んだ思いを、ぼくは忘れてはならないと思う。>


あの頃、K先生、O先生、H先生と同じ学校にいながら、
ぼくは、その事実に気づきもしなかった。
あることが、ある人の心に深く刻み込まれる。
人によって異なるであろう「刻み込まれるもの」が、
その人をつくっていくことに影響を与えていくのだろう。
海三郎君のその文章は、文学雑誌のなかで、大江健三郎の作品について書いていたなかにあった。
海三郎君はその雑誌をぼくに送ってくれた。
「海三郎」と君付けで呼ぶことに、少し躊躇もするけれど、
かつて一緒に山に登った教え子としての彼が、ぼくの心の中にはある。
だから、ぼくは海三郎君と呼ぶ。


K先生について書いたこの文章は、ぼくの心に響いた。
ぼくは、すぐさま長いこと会っていないH先生とO先生に電話をかけた。
つながったO先生との会話は、青年時代にもどった。
海三郎君の書いているK先生の話をすると、
Oさんは、海三郎君たちと会ったときのことを思い出しながら、
こんなことを話してくれた。


K先生ね、あのおじぎ、ぼくが訊いたら、
妹さんが空襲で死んでしまって、自分は生き残った、
それから、深ぶかとおじぎをするようになったと聞いたことがあるよ。
戦友との永別? そういうことも話していたかもしれない。
海三郎君たちとは二年ほど前に会ったかな。
何げないことも、人の心に深く残って、年を経てふくらんでくるものもあるんだね。
遠くへ行く前に、一度会いたいね。
梅田辺りへ出てこれないかい。


Oさんは何度も、会おうやと繰り返した。