海三郎君が来た

チロルの山で

 おととい土曜日の午後、海三郎君が来た。春に来る予定だったが、この季節になった。
 中学校のとき彼は学校新聞部員であり登山部員だった。ぼくはその両方の顧問をしていた。
 同じ新聞部員だったマルちゃんから突然手紙があったのは去年だった。44年の空白を超えて彼女は現れた。マルちゃんは同級生の何人かの男子にとってあこがれの女の子だった。海三郎君はそのマルちゃんと二人でこの春、我が家に来ることになっていたのだが、マルちゃんが来られなくなって、結局海三郎君一人で来たのがおとといだった。
 彼はサイクリング車にまたがってヘルメットをかぶり、本格的なサイクリングの服装で、さっそうと現れた。50年前のダンディストは今もダンディストだった。ヘルメットを脱ぐと、白髪が風に揺れた。お腹もぷっくりしていた。
 「臼井吉見記念館のところに車を置いて、自転車で穂高の辺りからぐるりと走ってきた」
 車にサイクリング車を載せてきたのだ。
 「中学生のとき、登山部で夏山に登ったとき、つば広の麦わら帽の左右を上に上げて、海三郎君はダンディだったなあ」
 ぼくは、大峰山脈八経ヶ岳の頂上で撮った写真を思い出した。カウボーイ風が海三郎君の好きなスタイルだった。家が牧場をやっていた今は亡き昇君と海三郎君は兄弟のように仲がよかった。昇君はコッテ牛のようにがっちりしていて体力があったが、海三郎君は小柄で繊細、ひょうきんだった。卒業生を連れて、春の唐松岳に雪洞を掘って泊まりながら登った時も、昇君と海三郎君はいた。
 去年、大阪で彼らの同窓会があったとき、マルちゃんは来なかったが、海三郎君とマルちゃんの話をした。そして次の春に安曇野の我が家に遊びに来るということになった。この同窓会は13年前に始まったが、そのとき彼らは50代、ぼくは60代だった。
 彼らとは、人生の最も活動的な年代に会ったことはない。だからその間のことはお互いによく知らない。もしその時代に会っていたら、思想的に突っ張りあうこともあったろう。だが今はみんな年をとり、突っ張るところは少なくなった。角が取れた。
 挫折も含めて自己の人生を肯定し、批判もし、時代の中で培った思想性を頑なに主張するということもない。自分自身を振り返ると、人生の活動期に出会った思想と実践が今も自分に影響している。だが、それを肯定否定、自分の中で峻別もするようになっている。苦い挫折経験もあった。それぞれが歴史と時代のなかで翻弄もされてきた。
 2時間ほど、ぼくらは工房で語り合った。海三郎君は、饒舌ではなかった。話はあっちへ飛びこっちへ飛び、政治の話から山の話になったり、頭に浮かんだままに話し合った。
 彼は信州にセカンドハウスをもっている。そこからやってきた。話がセカンドハウスに降り積もった雪の話になった。
 「大雪が降って、3日ほど別荘地が停電になったんですよ。そうしたらどうなったと思います。電気が来ないから、ストーブは駄目、トイレ駄目、風呂沸かし、もうどこも電気を使っているから、生活できなくなったんですよ」
 凍結防止もできない。電気毛布も使えない。冷蔵庫も。
 「東日本大震災の被災地の友人が、家には一箇所、水洗でないトイレをつくっておくことだというんですよ」
 「あー、そうなんだ。ぼっとんトイレを作っておく必要があるんだ。ぼくもこの工房のトイレをそうしようと思いながら、水洗にしてしまった」
 薪ストーブもキッチンストーブにしておくといい。

 彼が編集している雑誌「季論」(季論編集委員会 本の泉社)も、その存在を広く世に知られず、部数は伸びないという。
 この時代、この日本、どのような方向へ進んでいくのか、どうなるのか、国も地方も、高齢世代も若い世代も、未来が見えてこない。
 会うたびに話の自由度は深まっている。まだまだざっくざっく掘るところはある。
 彼は自転車を車に積んで、今滞在している彼の信州のセカンドハウスに帰っていった。
 文芸評論家、海三郎君、今度は薪ストーブに火を入れて、一献やりながら話をしよう。