(8)<子どもの生活を知る>


        授業を成立させるには、子どもを知る


谷口先生が授業に行くとき、階段の踊り場に固まっていた数人に、
「教室に入らんか」と声をかけた。
たむろしていた生徒たちは応えた。
「おれらに教室に入れちゅうのは、酒飲みに酒飲むなちゅうのと同じことや。
飲みたくなったら飲むし、飲みたくなかったら飲まんちゅうことやけ、あまり構わんでいいよ」
採用になって何年目かの早い時期のことだった。
そのときの体験を出して、中学校教師・谷口研二先生が河合隼雄氏と対談している。


河合 いいことを言うじゃないですか。
谷口 はい、実に見事なものでした。
河合 それでどうしました。
谷口 連日、格闘でした。
  (『子どもはおもしろい』講談社 1995)


中学校や高校の教師は、このような場面にぶつかる可能性が高い。
実際ぼくはもっと過激な場面に遭遇してきた。
谷口先生は、そういう子どもたちを相手にしながら、授業をどうするか考えていた。
手ごたえがあったのは、生徒に選ばせた、リチャード・ボーイという黒人作家の書いた短編小説『ブラックボーイ』を、教材に使ったときだった。
はみ出している生徒が、『ブラックボーイ』の授業に来て、自分の父親のことに想いをショートさせ、
「こういう父ちゃんやったら、やっぱりおらんようになったら楽になるね」と言う。
そこから生徒たちの抱えている現実が授業の中に現れてくる。
谷口先生は子どもたちに問いかける。
「おまえらの中に父ちゃんがおって楽な家と、父ちゃんがおらんほうが楽な家はないか」。
学校というところは、子どもを常に漂白しようとしているが、
生のままでいいとなると子どもはそのままの自分を表現し始める、
二人はそう確認し合いながら対談はこう続く。


河合 (子どもを)漂白しないほうへ持っていくと、ものすごく個人的なことが飛びでるんですね。
とくに中学生ぐらいだったら。
そうするともうだれかの刺激が、それが強烈ですから、強烈な刺激を受けると、自分のことがポッと飛びでてくる。
だから先生のほうは扱うのがものすごくむずかしい。
谷口 だから、教室だけではその子の生の声を受け止めることは絶対にできないんですね。
河合 そうですね。ぼくもそう思います。
谷口 教師だというんでプライバシーに入っていけるという面があるでしょう。
河合 そうそう
谷口 これが、ある教師との関係の中ではものすごく嫌なことなんだけど、
ある種の関係が成立している場合は、知れば知るほど授業に返ってきたり、
彼の言葉をフォローする条件というのを教師が手に入れることができるんですね。
教師は、学校あるいは教室と彼の生活圏みたいなものをつないでいく役目をやれる立場にあるんですね。


このような関係を築くことができたときに、子どもたちが動き出し、授業もまた成立していく。
しかし、新任がいきなりこのような関係性を築くことは難しい。
子どもがどのような生活を送っているのか、親・家庭がどんな状態なのか、子どもはどのように育ってきたのか、
そういう一人一人のことが一切分からないままに、教壇から十把一からげに教えようとし、子どもを動かそうとする。
だいたい教師は操作主義におちいりやすい。
それは教えるという行為のおちいりやすい権威主義であって、子どもを権威、権力で動かそうとする。
それがだれにでも通用するはずもないのに、子どもが言うことを聞かなかったりすると、上からものを言う。


「教師は、学校あるいは教室と、彼の生活圏みたいなものをつないでいく役目をやれる立場にある。」
では、実際にそれをつなぐには、どうしたらいいか。
子どもの生活も知らないでつなげるはずがない。
授業は重要だが、授業だけをうまくやろうとしても授業は成り立たない。
教師と子どもの関係性を確立していく実践がなくてはならないわけである。
授業以外、教室以外、学校以外の個々の子どもとの関係を築いていく取り組みである。
医師という仕事は、患者の体や精神(プライバシー)のなかに入って治療することを社会的に任されているプロである。
教師は、子どもの知育、体育、徳育、精神(プライバシー)にかかわっていくことを任されているプロである。
子どもが教師を信頼し、心を開いたときに、教師は子どもの心(プライバシー)に入っていくことができる。
授業が生の生活現実、生の人間に立脚したものに近づいていくのはそういう関係性にもとづく。
至難の業とも言えるが、教師はプロの仕事だというならば、
そこに挑戦しなければならないと思う。
生活綴り方教育運動に取り組んだ先人たちはそれを実践していたのだと思う。