⑨登山部五年目、木曾の御岳登山


        ⑨開田高原から3067メートルの御岳へ
    <こういうこともできた時代の ひとつの記録です>


淀川中学校登山部、五年目の夏山は木曾の御岳にチャレンジした。
開田高原から標高3067メートルへのアタックである。
夏休みに入って準備を進め、勉強会をし、食糧の買出しに行った。
装備は、この5年間の生徒会予算で、テント、石油コンロ、大鍋、コッフェル、寝袋を整えていた。
1964年当時の開田は秘境と呼ばれていて、木曾駒(馬)の産地であった。
参加生徒は15人、引率は大学山岳部の二年先輩の藤谷氏とぼくの二人、大阪駅から普通列車に乗って名古屋経由で木曽路に入った。
初めてSLでの長旅に子どもたちは大喜びだ。
木曽福島から開田までバスに乗る。
バスは木曽川を越えて急坂を登っていった。
開田高原に着くと、あいにくの雨となった。
開拓農家の点在する林と畑の道を、列を組み、山麓のキャンプ場に入ってテントを張った。
夕食を作りに掛かる。他に登山者はいない。


翌朝、雨は上がる。テントを張ったままにして、行動食、非常食、雨具、防寒着をザックに入れ、午前6時に出発。
頂上往復は9時間のコース、日帰り登山であるから、中学生にとってかなりの強行軍である。
開田からオオシラビソの樹林地帯を縫うようにじぐざぐ登っていく。
一年生もよく歩いた。あごを出す者はいなかった。
樹林地帯を抜けると視界の開けた高山植物帯になり、岩肌をむき出した大火山の頂上が眼前に姿を現した。
来たぞ来たぞ、緊張感がみなぎる。
飛騨頂上直下の三の池で二班に分け、元気な者は頂上へ、疲れているものは休憩して待つということにした。
三千メートルの頂上は天に突き出した大地のどてっぺん、
彼らは快哉を叫ぶ。
360度の宇宙を堪能して登頂組が下りてくると、休憩組が一悶着起こしていた。
神聖な三の池に石を投げ込んで遊んでいたのだ。
御岳は信仰の山、王滝から登ってきていた信者は怒った。
怒鳴られ、ほうほうのていで逃げてきた彼らにぼくは言って聞かせる。
山で石を投げることは、絶対やってはならないことだ、
おまけにそこが信仰の池であるなら、なおさらのことだ。
それにしても、彼らのエネルギーには感心する。


雨を含んだ下り道はよく滑り、
誰かが尻もちをつくたびに、ヤッターの叫びを上げて、みんな大笑い。
全員無事開田高原キャンプサイトに帰り着いてほっと一息ついてから、すぐさま次の行動にとりかかる。
疲れていても夕食を作らなければならない。
食料係の生徒はてきぱき指示を出し、まずは火を焚き、飯ごうで米を研ぐ。


ところで、ぼくはとんでもないドジをやらかしたのだった。
行きの列車の連結器に、自分の特大キスリングザックを置いていた。
木曽福島に着いて降りようとすると、ザックが横倒しになっており、サイドポケットに入れておいた全員分の交通費がない。
見ると連結器の幌の下に穴が開いているではないか。
ポケットから飛び出た封筒は、その穴から下に落ちたにちがいない。
木曽福島の駅員にそのことを届け、山から下りてきて木曽福島駅に問い合わせると、金は名古屋駅からしばらく行った千草のあたりの線路上に落ちていたという。
保線係が拾って保管してくれていた。聞いて胸をなでおろした。


あの頃、子どもたちはかくもハードな登山に、敢然とチャレンジした。
親は子どもを送り出し、管理職はそれを許可した。
三千メートルの山に登った体験は、子どもたちのなかに確実に力の泉となってのこっただろう。
「無難に、楽に、便利に、過保護に」が浸透する現代、野性的冒険の機会を奪われた子どもたちは、さまざまな実態となって現れてきている。


6年目の夏休み、ぼくは山岳会の仲間とヨーロッパからインドまで、シルクロード60日間の旅に出た。
その間、登山部夏の合宿は、藤谷先生が引率して、鳥取伯耆大山に登った。
6年目を終えるとぼくは淀川中学校を去った。