(5)<支えあう友をもつべし>


       親しい友が影で支えてくれた
   

同じ年の新任教師同士は、互いに支えあう最も親しい間柄になる。
新入生徒を受け入れて、三年間受け持って卒業式で送り出していくこの三年間を同期の友と体験することは、おそらく教師人生の原点となるだろう。
新任一年目で壁にぶつかり、悩んでうつ状態になったとき、落ち込みから脱却できる力を友は与えてくれるし、友に与えることができる。
一年目は悩み苦しむことが多い。子どもを指導する修業などろくに積んでいない学生上がりの身で、何十人の子どもを一定の時間集中させることなど至難の技である。
いろんな問題に直面するだろう。
問題があって当たり前、波風のない集団なんてありえない。
もまれもまれて教師になっていくのだから、アブノーマルな状態こそ力量を積む練習の場だと考えることだ。
二年目、子どもとの信頼関係ができてきたら、個性的なユニークな実践が可能になる。
友と実践を競い合う気持ちも生まれてくるだろう。


ぼくの友はハギさんだった。
新設二年目の学校であったから、教員のなかに占める若い教師の比率は高かった。
ぼくらは勤務が終わると、週に一度は餃子の店や立ち飲み屋に入って語り合った。
台風が来つつあった秋の日のこと、学校は子どもたちを早々と下校させ、教員も一部を残して家路につくことになった。
風が吹き始めていた。
学校を出たハギさんとぼくは、天六の商店街にある喫茶店に入ることにした。
台風が来るというから客は一人もいない。話し出したら止まらない。二人はえんえんとクラスと子どもの話をした。
夕方近くなって窓からのぞくと、街路樹がひどく風にあおられて揺れている。
台風の到来だな。二人はあわてて店を出て電車に乗った。


三年になったときのこと。
二つの教科の授業態度がたいへん悪くなっていた。勉強そっちのけでおしゃべりしている。
終わりの学級活動の時間に教室へ行くと、委員長の高島君と風紀委員の川上さんが、クラスのみんなに強く説教している。
これまで何度もあったことだし、効き目がないように思われた。
子どもに任せて待つべきだったが、ぼくは未熟な青二才、感情が激して強い指導に出てしまった。
「自分の力で規律ある行動がとれるものは?」
と問いかけると三人が手を上げ、その他のものはしんとしている。
「自分でできないなら、刺激を与えられてもいいということか」
彼らはそれに賛意を表しているように見えた。
ぼくは三人を除いて、みんなの頬にパチンパチンと刺激を与えていった。
そして最後に、自分の手で自分の頬を数発なぐった。
翌日、生徒たちは放課後、自分たちだけで長い反省会を開いていた。
その次の日、教室に行くと、彼らは全員起立し、高島委員長が前に出てくると、反省の言葉を発表した。
この顛末について、後に生徒の日記から分かってきたのは、裏でハギさんの力が働いていたということだった。
子どもたちは、どうしたらいいのかと、ハギさんの授業のときに相談した。
ハギさんはこう言ったらしい。
「ぼくは吉田先生のすることは何でも信用する。吉田先生は学校一の暴力否定論者なんだ。」
本の学校には体罰の伝統が残っていた。否定をしながらそれを使ってしまう未熟さ、
後にそのことは大きなテーマになっていく。
ハギさんはこのときのことをぼくには何も言わなかった。
黙ってぼくを支え、子どもたちを支えてくれたのだった。
支えあう友をもつべし。