夜回り先生 


       夜回り先生 
     

<教師としての22年間で、一つだけ胸を張ることのできること、
それは、ただの一度も、生徒をしかったり、怒ったり、怒鳴ったり、殴ったりしたことがないということ。>
夜回り先生はそう書いている。
学校現場では、叱らねばならないときは叱る必要があるとしてきたし、感情的に怒ったり、怒鳴ったりもしてきた。
明らかに間違っていたと、振り返るたびに心の痛む記憶もある。
だが、夜回り先生は、一度もないと言い切る。
それは実際にそういうことをしなかったことの『ベース』があるということだと思う。
考えがあり、心があり、意識して、そうしてきたということなのだ。


夜回り先生は、こう続けている。
<私は教員生活でも、夜の町でも、子どもたちを褒めます。子どもたちのいいところをいっぱい探して褒めます。その時に輝く子どもたちの目、私は大好きです。私にとって、この世でいちばん美しいものです。
 大人の方たちに聞きます。あなたの子ども、かかわっている子どもたち、良いところと悪いところ、どちらが多いですか。
 今は、親や教師、大人たちが子どもたちのあら探しをしているように見えます。悪いところを重箱の隅をつつくように見つけ、そしてしかる。これは、大人社会でも同様に見えます。人は、まして子どもは、日々しかられ続け、否定され続けたらどうなるでしょう。
 日本は優れた国です。かつて先人は「子どもは、十褒めて一しかれ」と言いました。褒めることで、自己肯定感を持たせ、人間関係をつくり、そして一つ指導する。大人はみな、その原点に戻りませんか。>


こういう主張は、たぶんすんなり学校現場では受け入れられないだろう。それは子どもを甘やかす、だから子どもがわがままになるのだ、と。
夜回り先生こと水谷修先生は、実際にはどんな指導をしているか、それを報道以外に見る機会はないから、その主張を否定したい気持ちが先に出るだろう。
重要なことは、否定する前に、
この人はどういう指導をしているのだろうかと、想像してみることだ。
「自己肯定感を持たせ、人間関係をつくり、そして一つ指導する。」と書いている、「一つ指導する」、この「指導」というのはどういうことなのだろうか。そこが肝心なことだと思う。
「指導」が子どもに入っている、子どもの心に届いているらしい、そう想像する。
そしてそのことはどういうことかとまた想像してみる。


多くの教師がはまる落とし穴は、
「指導」しているはずが、指導になっていないということだ。
だから感情的に腹を立て、叱ったり、暴力をふるったり、突き放したりする。
湧いてくる怒り、嫌悪、否定が、指導を成り立たせなくしている。


<今は、親や教師、大人たちが子どもたちのあら探しをしているように見えます。悪いところを重箱の隅をつつくように見つけ、そしてしかる。これは、大人社会でも同様に見えます。人は、まして子どもは、日々しかられ続け、否定され続けたらどうなるでしょう。>
大人社会の大人同士もたしかにそうなっている。
それが住みにくさや、孤独や、結果として犯罪を誘発しているように思える。
夜回り先生の言わんとしている真意、それはたしかに重要なことだと思う。
子どものことを言いながら、日本の国のおちいりつつある落とし穴を言っている。


 <夜の町を徘徊して悪さをする子にも、暗い部屋で体を傷つけて死を思う子にも、必ずそれまでの短い人生の中に、大人たちによって作られた傷があります。そのような被害者としての子どもたちを私はしかることはできませんでした。>
 実際に毎晩動いて、子どもたちに語りかけている夜回り先生を受け入れている子どもたちがいるということなのだ。