旧友は温かかった


         旧友は温かかった


大阪の友人が、ぼくに語る場をつくってくれて、
タイトルは何にすると聞かれたとき、
考えが決まらないまま「中国の民衆の中で発見したこと」と答えた。
語る場は、蘇州大学と交流する大阪教職員の会10周年記念の集い、
一時間半の講演時間をいただいたが、まえおきが長くなり、
あっというまに時間が過ぎた。
集いの出席者は、ご無沙汰していた先輩たちだった。
大阪の教育をつくるために心血を注いでこられた先達たちは、
退職後も日中友好の礎を築こうと活躍されている。
キャスターに本と写真を積んで会場のホテルまで運んでくる間、頭に浮かんだことがある。
ぼくは、それを導入で話してみようと考えたのだった。
迎え入れてくれた、善良な昔の同志たちの温かさ。
安堵感のもたらす気楽さから、ぼくは気の向くままに話した。


人生にはいろんな出会いがあり、
節目になる大きな出会いによって、人生は変化してきた。
出会いによって自分のなかに生じたものは、
その後の人生を貫いていくように思われる。
ぼくの場合、山との出会いがあり、それは今も自分のなかにあって変わらない。
子どもたち、友人、教育運動、平和運動、公害闘争、共同体、中国、
いろんな人、いろんな集団と出会い、生活や実践や運動と出会って、それらの糸が自分をつないでいる。


人を肯定したり否定したりすることがある。
集団に対して、肯定したり否定したりすることがある。
結婚するときは相手を全肯定し、離婚するときは全否定していることがある。
集団を支持しているときは全肯定、支持しなくなると全否定する。
あの人は大好き、あの人は大嫌いと思っているときは、100パーセントそのような気持ちになっている。
だが、全肯定なんてありえないし、全否定なんてありえない。
100パーセント肯定したり、100パーセント否定したりできるわけがない。


保守政党を支持する人、革新政党を支持する人、
あの人は保守、あの人は革新だと言うけれど、
100パーセントそういうことはありえない。
保守、革新、そのときどき、その事がらによって左右に針が揺れる。
自分の中には右翼もあれば、左翼もある。
善もあれば悪もある。
それなのに、自分を全否定したり他者を全否定したりして切っているときがある。


「切る」言論が、大手を振って歩いている。
国と国、宗教と宗教、民族と民族、
他者を全否定するとき争いが起こる。


ぼくが中国で得たメッセージは「情で通じ合おう」というものだった。
日本のここに集う人たちや旧友たちにも深い友情がある。
「情」でつながっていこうと身銭をきって、体を張って実践している人たちがいる。