山へのあこがれ(二)


       戦争のなかの山


恵まれて、その道にかけることができても、
憧れを追求する過程の困苦は、
それはそれで厳しい。
オリンピックの優勝者らは満身創痍だろう。
けれどもあこがれて、その道を行くことは幸せなことだ。


恵まれず、その道にかけることもできなかった時代、
憧れを追い求めることができなかったあの時代に、
それでも憧れを追い求めた人たちがいた。
我が認識の甘さ。


昭和17年、関西登高会の新村正一と梶本徳次郎は穂高屏風岩に挑戦、36時間の苦闘の末、第一ルンゼからの初登攀に成功。
昭和18年冬、北大パーティがペテガリ岳の積雪期初登頂。
同じく冬、東大パーティが燕岳から槍が岳登頂。
そして春、日本医大が東大谷から剣岳登頂。
こんな時代にも、山に登る人がいたとは、
人間とはなんとけなげな生き物か。
その年十月、出陣学徒壮行会が神宮外苑競技場で行なわれた。
銃剣を肩に雨中、学生服で行進した彼らの姿は悲壮だった。


「きけ、わだつみの声」のなかに収められている山岳部の学徒の手記。


昭和十九年二月二十九日
 美しい雪晴れで、風が強く吹いた。車廠の屋根から本物のような雪煙が上がった。三月の西穂の痩せ尾根を思い出させた。嬉しいような、しかしただ何とはなしに悲しかった。足が冷たかった。どうして雪と氷と、雲と風と、それらがこんなにまで私の心を動かすのだろう。
三月一日
 三月が来た。またしても雪の山を恋う。今日はペーターカメツィントを一気に読み終わった、異常な感激を持って。ジャン・クリストフに似た印象。
六月五日
 父上、母上に。
 長い間あらゆる苦難とたたかって私をこれまでに育んでくださった御恩はいつまでも忘れません。しかも私は何も御恩返しをしませんでした。数々の不孝を御赦しください。思えば思うほど慙愧にたえません。
南極の氷の中か、ヒマラヤの氷河の底か、氷壁の上か、でなければトルキスタンの砂漠の中に埋もれて私の生涯を閉じたかったと思います。残念ですが運命の神は私に幸いしませんでした。
 すべては悲劇でした。しかし芥川も言っているように、親子となったときに既に人生の悲劇が始まったのだということは、いみじくも本当だと思いました。


 中村徳郎 東大理学部学生。昭和17年入営、19年6月5日、フィリピン方面に向かい行方不明、25歳。