禁止と拒否



         禁止と拒否


くつのかかとを踏んで、
サンダルのようにして歩いている子がいた。
かかとを踏まないで、きちんと履きなさい。
女の子はそれを無視した。
それは、命令する者を拒否する信号だった。
きちんとすることを拒否しているのではなく、
きちんとさせようとする者を拒否していたのだった。


こうしなければなりません。
やりたくないよ。


そんなことをしてはだめです。
べつにいいじゃないか。


家庭でも学校でも社会でも、
「だめ」を連発し、
「だめ」を拒否している。
制約しようとし、
制約を無視しようとする。
型にはめようとし、
型からはみだす。


お母さんたち、今日はいくつ言っただろう。
さっさとしなさい。
もうやめなさい。


先生たち、今日は何回禁止を言っただろう。
おしゃべりはいけません。
座りなさい。
あの子はわがまま。
あの子は言うことを聞かない。


「だめ」という結論と「いや」という結論がぶつかる。
「だめ」が銃撃する。
「いや」が反撃する。
話し合いの不在。


相手の気持ちを受ける、
こちらの気持ちを出す、
これは討議の前段階。
幼い子どものときから、この練習を豊かに積み、
結論・結果はたなあげして、
相手の考えを聞き、
こちらの考えを言う。
そうして、相手の希望と、自分の希望をねりあわせて、
もっと高い希望を見つけていく、
このことができるようにしていくことが、
最も重要なことではないか。
これが教育の要ではないか。


「だめ」という結論、「拒否」という結論が先行する、
プロセス抜きの社会はギスギスする。
プロセス抜きは人を切り捨てる。
それで人が病んでいく。