(0)私が教師になった日


         教えるとは、希望を心にいだくこと   
 

教員として赴任するまでの三月、
ぼくは早月尾根から剣岳に登る大学山岳部の合宿に参加していた。
春の雪山は、紫外線が強烈で、
赤黒く焼けた皮膚がぼろぼろとむけてくる。
下山して家に帰ってきたら、
大阪市立淀川中学校から面接の連絡が来ていた。
面接の日は過ぎていた。
あわてて学校へ行くと、
この重要なときに、山に登っているとはなにごとか、
と校長は苦りきり、怒っていた。
それはそうなのだ。
春休みのうちに、次年度の担任など体制を決めなければならないのだから。
こちらの事情は、山へ行く前に、別の学校での面接があり、既に内定したと理解していた。
しかし、青田買いのような学校独自の行動は取り消され、教委からどんでん返しを受けていたのだった。
学校は淀川堤防のすぐ下にあった。
1960年、安保の嵐が吹き荒れていた。


一年生担任に決まり、
入学式前日に、だれもいない教室に行った。
階段を上って最初の教室がぼくのクラス、
新築したばかりだった。
見上げると「吉田学級」と書かれた新しい札が、ドアの上に掲げられている。
胸に突き上げてくる熱いものがあった。
学生であった自分が、これからは黒板を背にして子どもたちと向かいあうことになる。
教室に掲げられた自分の名前、
社会から使命を任された証がそれだった。
社会人の一員になったのだ。
社会のなかに位置づけられた自分の存在を実感した瞬間だった。


学生であったとき学生自治会の配ったチラシ、
わら半紙にガリ版で印刷されていた詩の一節がよみがえった。
ナチスと戦ったフランスの詩人、ルイ・アラゴンは、
ナチス侵攻によって閉鎖されたストラスブール大学の学生たちを励まして、
ストラスブール大学の歌」という詩を作った。
その一節。


 教えるとは、希望を心にいだくこと
 学ぶとは、誠実を胸に刻むこと
 かれらはなおも苦難のなかで
 その大学をふたたび開いた 

          
あした子どもたちを迎える教室、
ぼくは一人がらんとした教室に入って、机や椅子を拭き清め、
花を活け、黒板に「迎える言葉」を書く。
開校して二年目の学校、まだ講堂も体育館もなかった。


入学式は青空の下、運動場で行われた。
式の後、子どもたちを引率して教室に入る。
教壇に立ったぼくは子ども一人一人の名前を呼ぶ。


名前を呼ぶ、名前を覚える、これは真っ先にしなければならない仕事。
それは子どもたち一人一人と交わすコミュニケーションの最初の一歩。
これから毎朝、始業のとき、子どもたちの名前を呼ぶ。
名前を呼ぶことは、その子を尊重し、その子が生きて育つことに直接かかわっていく行為なのだ。
1クラス50人、子どもたちが教室にぎっしり座ると、
いちばん後ろの席の子は、背後の壁にくっついていた。