パブリック フットパス


     パブリック フットパス


大和の古い集落のあちこちに蝋梅が匂っている。
昨日は雪が舞った。
朽ちていく大和棟の空き家がある。
かやぶき屋根にトタンをかぶせた家がある。
入り口に障子紙を張った昔ながらの家もある。
集落の道は細く、土塀や民家の壁に沿う路地を行くと、違った風景に出会う。
野の道には野の仏、花が供えてある。
毎朝歩く街道には、一言主神社、長柄神社、春日神社、高木神社、住吉神社と続いている。


大和は国のまほろば、青垣山を眺めながら歩く。
ここは古代、朝鮮からの渡来人もたくさん住んでいた。
先祖代々大和に住んできた人たちの血の中には、百済人の血も受け継がれている。
南に紀伊山地、西に金剛葛城、東に宇陀・室生の山塊、
山に囲まれた盆地に文化が発祥した。


だが、まほろばの大和は滅びつつある。
新興住宅街が面になって広がり、家々は建て替えられ、
風土に調和した村の美観は点となりつつある。


イギリスに「パブリック フットパス」という小道がある。
全国いたるところに、車の通らない、歩くための小道が、連綿とつながっている。
道端に小さな「パブリック フットパス」と書かれた道標が立っていて、
そこを入っていくと農家の庭を通り、牧場に出、小川のほとりを歩き、湖に出たりする。
人間はだれでも、自然に触れて歩く権利をもっているという思想を国民が共有し、
だれでも自由に歩ける小道を通している。
丹精こめた花の咲く庭を、通る人に眺めてもらう。
見知らぬ人とも垣根越しに会話する。
自然と田園と民家と文化遺産が調和して、パブリックの考え方が風土をつくっている。
パブリックの思想は、個人のものも、みんなの文化財であり、
その消失は国民の宝の消失であると考える。
だから、点や線ではなく、面として美しい国土が保全されていて、
これから百年後も変わることはないだろうというのだ。


地域全体に「パブリック フットパス」を網の目のように通せないか。
大和にはすでに連綿とつづく小道がいたるところにある。
意識すれば「パブリック フットパス」が生まれる。
パブリックの思想は面として地域全体をとらえ、地域を変えるかもしれない。
現代日本は、地域全体をわが庭、わがカントリーと考えることを遠ざけてきた。
ここは我が家、これは我が会社、ここは我が土地、と勝手きままに、
風土に不調和な看板を立て、建物を建て、山を削り、川を汚し、廃棄物を捨てた。
「パブリック フットパス」の思想は、この考え方を変えるかもしれん。
森の道、田畑の道、街道を歩く。
野仏、寺・神社、古い商家、古い町並み、美術館、博物館がある。
作物が育ち、鳥が鳴き、花が咲き、木の実が落ち、川にホタルが飛んでいる。
趣味や芸術、労働、住民の作ったものが、展示・販売されている。


「パブリック パス」の血管が通れば、住む人、訪れる人の意識を変えるかもしれない。