原罪とはなんだろう


      原罪とはなんだろう


昨年暮れ、昔の仲間と食事をした。
クリスチャンで社会科の先生をしているYさんとは十数年ぶりだった。


Yさん、ブッシュ大統領も熱心なキリスト教徒ですが、
どうしてキリスト教徒があんなに殺戮をするのでしょう。
イエス・キリストが今生きていたら、
あのキリスト教をどう見るでしょう。


Yさんはきっぱり言った。
あれは、キリスト教ではありません。
本当のキリストの教えはそんなものではありません。


Yさん、宮柊二はこんな歌を作っています。


  原罪といふはいかなる罪ならむ
  まぼろしに鳴る鞭の音する


柊二(1912〜1986)は、戦後日本の代表的歌人だった。
新潟に記念館がある。
彼は日中戦争に従軍し、四年間、侵略戦争の実態を直視して歌をつくった。
中国兵を殺した場面も、戦友が死んでいく場面も歌にした。


  磧(かわら)より夜をまぎれて来し敵兵の
  三人迄を迎へて刺せり


  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば
  声も立てなくくづをれて伏す


柊二は命ながらえ、復員してからも、
戦争と、戦争を引き起こした日本を見続けて歌に詠んだ。
人間性を失っていく戦争のるつぼに身をおいて、
どうしてあのような歌がつくれたのか。


柊二が詠った原罪とはなんだろう。
旧約聖書の創世記、アダムが犯した人類最初の罪・原罪、
今も人類は生まれながらに原罪を負う。
人間はそういう存在なのか。


柊二が詠った原罪、それは地獄を見てきたものの実感。
自分も人を殺した。
生きながらえて、自分の罪を見る。
十字架を背負う柊二は、死ぬまで日中戦争を詠い続けた。


大岡昇平「レイテ戦記」。
 死者と生者との和解というものが、
 永遠にあり得ないというところにまで行きついてしまうような、
 なぜそういうところにまで、至りつかねばならないような羽目に、
 人間は陥ってしまうのか。


人間の中に何があるのだろう。
兵士となって今も戦場で、善良な人が人を殺している。




    宮柊二の短歌については、拙著
    「架け橋をつくる日本語  中国・武漢大学の学生たち」(文芸社
    に詳しく書きました。
    柊二の歌は、中学・高校の教材として取り上げねばならない遺産だと思います。