子どもの死
遠藤豊吉という教師がいた。
1944年、学徒動員によって従軍、特別攻撃隊員になったが、
日本の敗戦によって出撃を免れて復員。
その体験をベースに戦後を生き、
小学校教育に専心した。
彼は、小峰書店の出版した叢書「日本の詩」の解説を引き受けたが、
その中に、わが子の死を詠った中原中也の詩をとりあげ、
解説の代わりに、同僚と亡くなった児童の、
エピソードをつづった。
二学期がはじまった九月一日。
ユカちゃんという一年生の女の子が無人踏切で電車に触れて死んだ。
上りと下りの電車のすれちがいに気づかず、
一方の電車が通り過ぎたとき、飛び出したのだ。
美しい死に顔だったという。
担任のA先生は、その日から二ヶ月ほどの間、
げっそりとやせ、
ほとんどものも言わずに、ぼうっと日を送ることが多かった。
まわりがいくらなぐさめても、
「ユカちゃんが、まだ夢に出てくるもんな」
と言って目をうるませるのだった。
そのできごとがあってから、何年もの間,
A先生は九月一日が近づくと、
ゆううつになってくるのだった。
その九月一日が無事にすぎると、かれはわたしに言ったものだった。
「遠藤さん、あの事故にあわなければ、ユカちゃんは、いま○年生だな。」
その時代その時代に、子どもと共に生き、
子どもの育ちに命をかけた先人達がいた。
それらの先人達を、現代の教師たちはどれだけ知っているだろう。
1月17日、幼女殺害事件の宮崎勤が最高裁で死刑の判決を受けた。
子どもの命が奪われ、傷つけられる事件が後を絶たない。
また来ん春‥‥ 中原中也
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るぢゃない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といひ
鳥を見せても猫(にゃあ)だった
最後にみせた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めてゐたっけが‥‥